フォト

my twitter

無料ブログはココログ

映画

2015.01.24

たまたまDVDで観た映画②:河瀬直美『2つ目の窓』に五感の奥底を揺さぶられる

■思いがけず届いたDVD映画鑑賞メモシリーズ・もう1作は、河瀬直美『2つ目の窓』(2014)です。じつは河瀬直美作品、食わず嫌いでずーっと気になりながらも全然観てこなかったのです(観ていたのは第一作『萌の朱雀』(1997)のみだった!!)でも、今回、偶然、DVD発売とほぼ同時のタイミングで届いたこの作品、よかったです。五感をフルに起動して感知する作品を撮る作家なんだ、とあらためて認識。ストーリー展開にはやや苦手感が残るのですが。二組の家族の二人の母親と主人公の女の子に作家自身の分身が投影されている、主人公の男の子には作家自身の息子への思いが、二組の父親=夫には作家の願望が投影されている、というふうに見えてしまう。私自身の勝手な誤読なのでしょうけれど。それに、だからといって、海の音、風の匂い、三線の奏でる原初の力を内包した音楽と踊り、生と死を超えていくものへの同化、といったモチーフを映像作品へと昇華する河瀬直美の圧倒的な力技に感嘆したことに変わりはないです。

たまたまDVDで観た映画①:70年代ノスタルジーSF娯楽アクション『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』

■やらなければいけないことが進まず、思わずしゃにむにDVDで映画鑑賞を重ねている。そんな動機では映画にも申し訳ない気がしますが、逃避先的DVD鑑賞メモ、第一弾です(この映画が好きな方には、ネガティブな書き留め方になっていることをあらかじめお詫びしておきます)。というわけで、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(2014)。結論としては、なんでこれ借りるリストに入れちゃったんだろう感が膨らんだ平凡なコミカルアクションSFでした体感アトラクション的にはたぶんよく出来ているから、劇場でなくDVDで鑑賞したのが根本的な間違いだった、という面も否めないのですが。SF大作時代の幕開け、1978年(スターウォーズと未知との遭遇が時代を切り拓いた頃!)に回帰してノスタルジーを煽る。70年代のディスコミュージックのカセットテープ(お母さんの形見でもある)を命綱のように大切にしている主人公(彼はまだ少年だった1978年に宇宙船で地球から連れ去られ、今はコミカルなちんぴら宇宙ギャングに成長している)とか、R2-D2とC-3POの凸凹コンビをそのまま‘しゃべるアライグマ’と‘木人間’のコンビに移し替えたようなキャラ設定(アライグマはドライな切れ者。で、木人間の方、木としては超人的(?)だが、発語に関しては自分の名前を言うこと(だけ)ができるなどなかなか愛嬌もの)、とか。ノリは完全に少年ジャンプです。もちろん、わるくはないのですが、‘アクション映画鑑賞者レベル’(?)が低い私が観るべき映画じゃなかった。私、日頃、観る映画を選ぶに当たってIMDb top 250を気にし過ぎていて、それが高じ、普段は観ないジャンルの映画だけど観ておかなければいけないかな感から、最近ランキング高位に入っている『アベンジャーズ』(2012)『X-MEN フューチャー&パスト』(2014)『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』(2014)を自分のTSUTAYA DISCASリストに加えてしまっていたのです。その勢いで(それら3作はというと未だ届いていない)、この作品もラインナップに混ぜてしまった、そしたら予想外に早く届いた、というのが今回の鑑賞に至る成り行きでした。こんどは逆の勢いで、自分のリストからアベンジャーズやXメンやキャプテンアメリカやその他のアクション映画の類いを全部削ってしまったのだけれど、それはそれでいつか後悔することになるのかなあ。。

2015.01.14

アングロサクソン系古典喜劇に疲れる

■TSUTAYA DISCASで届いた希少物件のクラシックシリーズ、フランク・キャプラ『毒薬と老嬢』(1944)ロバート・ハマー『カインド・ハート』(1949)を観る。この2作はどちらもIMDb top 250の200位近辺に時々ランクインする常連で、その割にレンタルで入手しにくかったので今まで鑑賞できずにいたもの。という具合に期待が大きかったので、かすかな‘ハズレ感’が、ひどく痛い。フランク・キャプラのハロウィーン‘コメディ’『毒薬と老嬢』の方は、ある家系をことごとく襲う‘狂気’を、かつて人の首を狩っていたインディアンの血に求めてまったく疑わず、しかもそれをドタバタコメディに仕立て上げているところが空恐ろしい。というか、当時の感性はそういうものだったのか、ということに直面して唖然とする。(ちなみに同じF・キャプラのクリスマス人情劇としては『素晴らしき哉、人生!』(1946)がありますね。)それにしても、インディアンと虐殺の記憶と現在の狂気を繋ぐモチーフは、S・キューブリック『シャイニング』にも通じますね。真逆からの取り扱いだけど。そしてこのキャプラ作品の狂気を扱う手つきの‘無邪気さ’は、いったいなんなんだ。わたしにはついていけませんでした。疲労困憊。一方で、続けて観ることになった『カインド・ハート』も、ある意味でドタバタ喜劇。毒薬と老嬢が新大陸の無邪気さなら、カインドハートはグレートブリテンの老獪さというべきか。それにしてもアングロサクソン系の喜劇ってこんなに酷薄なのか。(といきなり大上段に構えてしまう…知ってやしないのに……しかも、ケンブリッジ卒とIMDbにあるロバート・ハマーはともかく、フランク・キャプラの方はイタリアはシチリアから新大陸への移民の子なんだから微塵もアングロサクソン系ではないのに無理筋でひとくくりにしてしまうなんて………)ま、とにかく、カインドハートでは、平民との駆け落ちで生まれた貴族の血を引く子が長じて、自らとその母を冷遇した一族への復讐を企て連続殺人を実行し公爵家の後継ぎへと成り上がり、土壇場で転落する。主人公に殺される貴族の一族を一人で演じ分けたアレック・ギネスの一人8役が、唯一の見どころのような気が。一人多役というと、またまたS・キューブリックの『博士の異常な愛情』のピーター・セラーズが思い起こされる。それにしても、毒薬老嬢カインドハートのどちらも「はぐらかし」の連続が妙味なのかもしれないけれど、私はあんまり好きになれなかった。エドガー・ライトの一連のコメディが苦手なのと近い感じ。私の「逆ツボ」(??)にハマった。あるいは私、もしかして、基本的に、喜劇への感受性に欠けている?………

2014.11.19

高倉健、昭和40年代という時代の沸点、その後の‘巨人’にして‘市井の人’

昨日11/18の昼頃、スマホの待ち受け画面に「高倉健死去」の速報が流れた瞬間からほとんどずっと高倉健のことを考えている、みたいな状態。ニュース速報からわずか3時間後ぐらいに放送されたTBSラジオ「たまむすび」での町田智浩による高倉健映画総括がすごかった。全体をバランスよく概観しつつ、偏愛的な勘どころを茶目っ気も込めて押さえている。日本国内だけじゃなくて、米・仏・中国の観客にとって高倉健はどういう存在だったか、具体的にどの作品の高倉健がどういうふうに受け止められたかについても鮮やかに語れるところが町田智浩一流の技ですね。これ、さすがに、3時間でまとめたわけじゃないよね、と思いたい。ちなみに町田智浩の‘高倉健愛’は、高倉健自身の企画によって実現したという降旗康男監督『ホタル』(2001)で最深部に到達したんじゃないんだろうか、というのが、僭越ながら「たまむすび」を拝聴して私が抱いた憶測でした。そして、町田智浩さんはすでに「淀川長治」の域に達している、とあらためて思う。

高倉健最後の映画となった『あなたへ』(2012)公開時に、高倉健に密着取材した特別番組、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」で見たのが私にとってもっとも最近見た「高倉健」だったのですが、そうかーあれは2年前なのか、と嘆息する。80代にはとても見えない精悍さだった。50代に見えた。幸福の黄色いハンカチの時から全く変わっていない、と思えた。なのに、去年の文化勲章受賞時のニュース映像(今回初めて見ました)の高倉健は、80代の年相応に、枯れて見える。たった1年の差なのに。その間に病気が発症した? あるいは、特別番組「プロフェッショナル」の高倉健はメイクも施した役者・高倉健だったのに対して、文化勲章受賞式典に臨んだ際の高倉健はその場へ敬意を表するという意味で‘素’の人間・高倉健だった、とか、そういうことなんだろうか。

高倉健といえば、たぶん大方の皆さんと同じ考えだと思いますが、やっぱり、『昭和残侠伝』シリーズ(1965〜72、監督:佐伯清、マキノ雅弘、山下耕作)です(当時私は子どもだったので、リアルタイムでの昭和残侠伝体験はしていませんが)。池部良と並んで死地へ赴く着流しの色気です。唐獅子牡丹を背負った背中から漂う殺陣の殺気です。横尾忠則によるポスターです。こうして1960年代末という特異な時代の「沸点」を体現した先に、時代の終わりを象徴する山田洋次監督『幸福の黄色いハンカチ』(1977)を経て、その後も時代の重石のように静かに存在し続ける‘巨人’にして‘市井の人’という高倉健像が成立したんだろうと思います。

(唐突かもしれませんが、昭和を象徴する二人の巨人、「渥美清」と「高倉健」が不動の像を結ぶのを媒介した「山田洋次」について、今まで語られることが少なすぎたんじゃないだろうか?、と、ふと思う。ちなみに、私が初めて山田洋次監督の作品にはっと立ち止まったのは、『たそがれ清兵衛』(2002)を観た時でした(‘高倉健’テーマから完全に外れてますすみません)。真田広之も宮沢りえもドキッとするほどよかったし、あの映画で私は初めて、武士の日常生活のリアル、食事や身繕いや日日の仕事を目撃した、と思った。最近橋本忍『複眼の映像』を読んで知ったのですが、そのルーツは、『七人の侍』の直前に橋本忍と黒澤明が入念に準備しながらも実現できなかった『侍の一日』という幻の作品にあったのかもしれませんね。)

2014.11.14

時の経過=生長し/老いる様を‘生け捕り’にし、まるごと肯定する『6才のボクが大人になるまで』

公開初日の映画の最初の回を見に外出するなんて、私にとっては前代未聞(!?)に近い入れ込み方。その作品の名は、リチャード・リンクレーター『6才のボクが大人になるまで』(2014)、行った劇場は新宿武蔵野館でした。

ある意味、重要な「ネタバレ」を浴びるように聞いた上で観に行ったことが多少災いした感もあるかなあ。もしこの映画の「撮られ方」について何の予備知識もなしに観ていたなら、きっと、生まれて初めてマジックショーを観た観客みたいに驚き、感動していたに違いない。何年か経た後の新しい観客の中にはこの映画とそういう出合い方をする人がいるんじゃないかな。ちょっとうらやましかったり。

同一の役者が生長する(or加齢する)過程に伴走し12年をかけてひとつの‘家族’を撮る(ドキュメンタリーではなくあくまでもドラマとして)という秀逸なアイデアは、結果的に同時進行することになる「ハリーポッターシリーズ」をヒントに生まれたに違いない、と、確信した。(…と言ってみたものの、実際は違うみたい。。リンクレーターにはすでにカップルについての『ビフォア』3部作があるから、その流れか。)まぁ、この映画中には、長大な列に並んで大大ヒット時代のハリポタを観に行く実録シーン(!?)も挿入されていたしね。私は自分自身の子育て歴がこの劇中家族とちょうど年齢・時代・家族構成的にゆるやかに重なるという、ある意味特殊な観客だったと思う。母親のポジションに自分を重ねてみたとき、離婚・再婚を重ねていないことと、仕事をちゃんと続けていないことがパトリシアアークエット母さんと決定的に異なりはするのだけれど。でも、個人的に、ひどく生生しい映画鑑賞体験だった。

リチャード・リンクレーターの「文化オタク」な体質(言い換えれば、反・体育会系の真性「ナード」気質)は、独特だなあと思う。そして、そこが好きでもあるのです。『ビフォア・サンライズ(恋人までの距離)』(1995)でジュリー・デルピーとイーサン・ホークが偶然出合ったヨーロッパ横断鉄道の車中でジュリー・デルピーが読んでいたのがジョルジュ・バタイユ(!)だったとか。『スクール・オブ・ロック』(2003)でジャック・ブラック演ずるニセモノ臨時教師が教室の子どもたちにロックの歴史を微に入り細に入り叩き込むところとか。そして今回の『6才のボクが大人になるまで』でも、離婚したお父さん(イーサン・ホーク!!)がミュージシャンを目指して挫折する役だったり、12年の成長の末とうとう大学に入学した主人公男子は写真家(カメラマンにあらず)を目指していたり。アート系の夢を追って破れる「ダメ男」へのまなざしが一貫してあたたかいですね。この、かなり偏向した強度の‘カルチャーオタク志向’で連想するのは、あのウディ・アレン。そして最近では新鋭グザヴィエ・ドランにも、その気(け)がけっこう強くあるかも。

この映画『6才のボクが大人になるまで』(あ、原題はBoyhoodですね。『少年時代』とすると、日本語では井上陽水の名曲に重なっちゃうか…)総括するとすると、今の時代にアメリカで生まれ、教育を受け、成長するということ、それをとりまく家族のありかたが、リアルに体感できる作品だと思います。経済的には中の上、しかも知的な層、というバイアスはかかっているけれど。(以下、ネタバレ多数含みます。)この12年間のアメリカ社会のいろいろな断面をさらっと、でも鮮やかに縮図的に切り取って見せてもくれます。オバマの最初の選挙でちょっとやり過ぎくらいの選挙運動に子ども2人まで巻き込んで熱心に参加する民主党支持者のイーサンホーク父さん、その彼の実家は、男の子が成長したらライフル銃を贈り狩りの手ほどきをするという穏やかな草の根保守層(たぶん共和党支持者)、同じイーサンホーク父さんが年を重ね新しい妻との間に生まれたベビーを抱いてその草の根保守の両親(主人公にとってはグランパ&グランマ)が住む田舎の家にしっくりとなじんでいる様。一方、シングルで子育てしながら大学に戻り後にはプロフェッサーの職を得るがんばり屋のパトリシアアークエット母さん、ステップアップファミリーでの新しい夫(子どもたちの新しい父親)の大学教授はアル中で、壮絶な家庭内パワハラを繰り広げたり。2度目の離婚を経て一時同居するパートナーは、イラクでの戦闘経験のある貧困家庭出身の元兵士だったり。こうやって思い出しながら書き起こしてみると、アメリカの一時代を間接的に俯瞰するという側面で、ロバート・ゼメキス『フォレスト・ガンプ』(1994)に近い映画でもあるのかなあ、などともぼんやり思う。そして、18歳になりこれから家を離れる主人公の少年の、高校卒業を祝うホームパーティー。そこには彼のこれまでの人生に関わってきたいろいろな人たちが集います。紆余曲折を経て「生きる」ということを、まるごと肯定しようとする、とてもあたたかい映画でした。

妻と下女の弁証法、あるいは、懲りない男の願望ムービー(こわいけど)

念願かなってやっと観られたキム・ギヨン『下女』(1960)@シネマヴェーラ(渋谷)。(以下、思い切りネタばれです。)オープニング映像で延々と映し出される姉弟の「あやとり」が、私の知っている日本のあやとりと完全一致形だということに驚きながらまずは見始める。結論を先に言うと、しかも、身も蓋もない言い方をするとすれば、これ「男の願望(or妄想)ムービー」ですね、と言い切ってしまいたい。この映画には最後の最後で「種明かし」的なラストが付け加えられるのですが、それを観てしまうと、「なあんだこれ‘男の願望ムービー’だったんだ!」というふうにしか見えなくなってくるわけです(少なくとも私はそうだった)。というふうに、最後にハシゴが外されてしまうのですが、そこに至る‘本編’では、男女の愛憎をめぐる楳図かずお調ホラーがこれでもかこれでもかと積み重なって家庭内パニック映画(表向きは「男の受難」映画めいたものが繰り広げられます。(「楳図かずお」への言及がツイッター上で散見されて、なるほど言い得て妙!と感心し私も表現を拝借したのですが、これって今回のシネマヴェーラでのキム・ギヨン&キム・ギドク特集上映でゲストトークをされた四方田犬彦さんがおっしゃったとかそういうことなのかなあ、と当てずっぽうで推測してみたり。)(*ネット検索してみたら、3年前の上映時にすでに「楳図かずお」への言及は一般化しており、最初の発言者はどうも映画評論家の宇田川幸洋さんらしいことがわかった。←後日追記)で、‘蛇女’めいた執着を主人公の男へ向けるぬめっとした恐怖のストーカー下女も、夫に冨と地位を求め自らも内職して夫を助け夫の不始末は世間から隠蔽しようとし結果として妻の座から実質的に転落していく妻も、男の願望そのものだと思いました(あ、最後に「勝つ」?のは妻一人なんだったっけ?←男の妄想枠内にて。いやみんな揃って破滅するんだったっけ?←すみませんすでに意識混濁状態…)。他にも願望の愛人キャラが少なくとももうひとり、絡んできましたね。若く健全(?とは言えないか、、)で、主人公の男から習うピアノが不自然なくらい確実に上手くなる女工。子ども二人のポジショニングも興味深い。足の不自由な姉と、あっけなく下女に毒殺されてしまう弟。そうだ物語進行中に妻が産んだ赤ん坊を3人目、同時に下女が孕んで流した胎児を4人目に数えるべきか。この角度から見ると、ドストエフスキー的でもある、ような。ちなみに、主旋律である‘妻と下女の弁証法’からは、寺山修司の『奴婢訓』を連想しました。最後に付け加えると。舞台となる家、1960年当時の韓国ブルジョワ家庭の‘理想像’として設定されるモダーン建築の木造家屋も面白かった。恐怖の舞台となる階段、窓。特に、全面ガラスの窓に張り付いて土砂降りの雨の中室内をうかがう下女の姿がおそろしかった!

2014.10.13

嵐の夜に嵐の映画を観る

「嵐の映画」とは、W・アンダーソン『ムーンライズ・キングダム』(2012)のことです。ウェス・アンダーソン節、全開。絵本のような、寓話のような、独特の世界。どこかディメンションが狂った蛍光パステル色のジオラマ風舞台装置のなかで繰り広げられる、屈折した少年と屈折した少女によるW・アンダーソン流「小さな恋のメロディ」でした。楽しかった。島の警察官ブルース・ウィリスや少年が所属するボーイスカウトの団長エドワード・ノートン等、脇を固める人気俳優たちのとぼけた味もよかった。全体に、次作『グランド・ブダペスト・ホテル』と、思ったよりずっと「近い」感。で、舞台となる島の‘主’みたいなナレーター、真っ赤なダッフルコートを着たおじいさんがこの物語の冒頭であきらかにするように、「3日後に大嵐が来る」ということが、この映画の隠れた主題です(と、勝手に言い切る)。小さな恋人たちの一途で奇妙な愛の逃避行は、この「嵐」へ向かってクライマックスへと上り詰める。たまたまそれと呼応するかのように(って、私がそのタイミングでDVDを観ていたってだけのことですが)、今日は日本列島を台風19号が縦断していたのでした。

2014.10.10

構造の脆さが本質的な欠点に思えるD・ヴィルヌーヴのサスペンス映画

DVDで観たドゥニ・ヴィルヌーヴ『プリズナーズ』(2013)の後味が悪すぎて、というかこの嫌な感じ、不承認の意思表明をどういうことばにしたらいいのかなかなか整理がつかなくて、IMDbやrotten tomateを回遊し過ぎてしまう。

サスペンス映画、スリラー映画、といったジャンル内映画と考えれば、非常に優れた作品なのかもしれない。ペンシルベニア郊外の森林地帯に近接した住宅街の、どこか寒々とした風景をじっと凝視するかのような視線が全編を貫いていて、映画の表現の質としては「A級」を感じるのです。観る人を惹き付けて離さない(私も惹き付けられました)。ただ、同じ監督の『灼熱の魂』(2010)でも同様に感じたのだけれど、その非常に込み入ったプロットは結果的に‘見せかけ’に過ぎず、観客への‘脅し’としてしか機能していないという気がしてならないのです。灼熱の魂におけるギリシャ悲劇を思わせるような重厚で大仰などんでん返しも、プリズナーズにおける二転三転の末の思いがけない結末、冒頭の鹿撃ちの場面から通奏低音のように響く聖書の文言信心深いプアホワイトとしての主人公の造形、ラストシーンで幻聴のように地下から響く赤いホイッスルの音(彼は生きて発見されるのだろうか…)も、一見深遠で衝撃的であるかのような気分に陥るのですが、でも、そこに至るディテールを追っていくとあまりの構造のもろさに全瓦解してもしかたないんじゃないか、と、私は思ってしまうのです。本質はシンプルなジャンル映画なのに、なにか存在の根源に迫っているかのような「偽装」をしている、あるいは「錯覚」をしているんじゃないか、と。無駄な装飾が多すぎる、と。ヒュー・ジャックマンに焦点を絞って観ればいいのかなあ。いやぁそういうわけにもいかないし。私はやはりしっくりこないです。

と、これだけ言葉を費やした以上、手短かに作品の紹介を。ペンシルベニア郊外の住宅街で、サンクスギビングの日、小さな女の子二人が行方不明になる。この地域に眠っていた小児性愛者による陰惨な未解決事件の影が次第に浮かび上がる。暴走する少女の父親。事件は果たして解決されるのか。『羊たちの沈黙』『ミスティック・リバー』『ゾディアック』等の名作もしばしば引き合いに出される、緊迫感溢れるサスペンス映画。

2014.10.06

『RUSH』は二度観ても十分面白かった / 佐世保事件その後の後味の悪さ

高2息子を付き合わせて、ロン・ハワード『RUSH ラッシュ/プライドと友情』(2013)のDVDをもういちど観る。息子は今日、台風のための休校で在宅。2度目の鑑賞でも十分面白い。どこがこんなに面白いんだろう。いろいろな意味で完璧。レースの迫真性。緊張がとぎれない画面構成。色彩と音、音楽。ふたりのレーサーの個性の描き分け方。たとえばニキ・ラウダの方は、たぶん、「プライドと友情」みたいなサブタイトルが付くこれ以外の凡百の映画でなら、主人公にもっとも相応しくないキャラクター、もしくは‘悪役’として描かれやすいキャラクターに違いない(一緒に観ていた息子は、ついこのあいだやっぱり一緒に観た『スティーブ・ジョブス』を連想したようで、ラウダ=ジョブス説を唱えていた)。だがRUSHでは、人から好かれようという発想のないこの孤独な天才ラウダが、肯定的に、多面的に描かれる。もう一方のジェームズ・ハントについてもしかり。まぁジェームズ・ハントの方はいかにも破天荒で、破天荒さゆえの欠点と魅力を備えたレーサーとしてアクション系の映画には生来なじみがいいと思うが。この二人のパートナーとなる女性も、それぞれ、いい。二人二様、とても緻密に描かれている。‘善悪’ならぬ、‘好悪’の彼岸。極限まで生きるということの裏表を感じ取らせてくれる映画。映画館で観たかったなあ。

昨晩なぜかものすごく眠くて早寝したため深夜のニュースを見逃したのだが(そして今朝のニュースは台風レポート一色でTVでは確認できなかったのだが)、昨日佐世保事件の女子高生の父親が自殺していたことを知って衝撃を受ける。時期の近さ、などから、思わず理化学研究所・笹井芳樹氏の自殺が重なって見えてしまう。この二人の男性の「順風満帆な」エリート人生を遮ったのは、若い女子による桁外れの‘蛮行’だった。みたいに。あまりに過酷な「身から出た錆」。それともある種の「呪い」か。かたや実の娘による間接的な「復讐」、かたや無意識の「魔女」によって仕掛けられた罠。

2014.10.05

思いがけない傑作『RUSH』に、‘あしたのジョー’を連想する

■台風が迫ってきていて気ぜわしいので、先週新宿に行った時TSUTAYAで借りてきたVHS物件を前倒しでダビング&鑑賞し、昨日のうちに返却宅急便に出した。エドワード・ヤン『クーリンツェ少年殺人事件』(1991)以外のもうひとつは、同じ台湾よりホウ・シャオシェン最初期の作品『風が踊る』(1981)。この『風が踊る』、ツッコミどころの多い作品で全体としてはううう〜ん、なんだけれど、それでも最初から最後まで観る気を繋ぎ止めてくれるくらいの“強さ”があった。

■TSUTAYA DISCASから届いていた新作DVDよりロン・ハワード『RUSH ラッシュ/プライドと友情』(2013)を観る。絶対自分から進んで観る類いの作品ではないんだけれど最近のヒット作だし、世評がひじょうに高いみたいなのでなんとなくdiscasにリクエストした。そうしたら思いがけず「当たり」物件だった!!ボクシングに興味がなくてもあしたのジョーは面白いでしょ、に近い感覚で、F1レースにまったく興味のない私にも十分面白い実録レーサーライバル物語。こういう意外な出合いがあるから、世間の評判のチェックも大切だなぁと思う。

より以前の記事一覧

2020年11月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

TODAY