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演劇

2010.04.30

井上ひさし*その1/「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」

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4月9日に亡くなった井上ひさしさんの追悼記事で、頻繁に引用されていた彼の「座右の銘」が、タイトルの文章です(ご自身の創作姿勢についての、でしょうか)。以前も同様のフレーズを目にしたことがあるのですが、いくつかバリエーションがあるみたい。

「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」(*私のうろ覚えによる)(朝日新聞の天声人語はこれを引いてなかったかな??)

または、

「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、ゆかいなことはあくまでもゆかいに (*日経新聞の追悼記事より。掲載日不詳)(「おもしろく」と「ゆかいに」が見方によっては重複するのが気になり、どちらかというと私としては、上の私のうろ覚えの方を採用したくなる…)

wiki井上ひさしには、次のような記載がありました。

「揮毫を頼まれると、『むずかしいことをやさしく、やさしいことふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに書くこと』とよく記していた」 (重複の問題は解決されているが、「まじめに」で締めるのは、なにか井上ひさしの本意に沿わないような気が--勝手に--、する)

いずれにせよ、名言ですよね。来年の書初めでは、(といっても書初め、してるわけじゃないのですが)、ぜひ、この名言を「揮毫(きごう)」したい。「揮毫」って、頼まれて、それなりの人物が書をしたためる際にしか使うべきじゃない用語だった??(私には、筆でさらっと色紙に書いたり、筆で書いたものを写してそれを木に彫り込んだりすると「揮毫」に当たるような、そんな思い込みがあるんですが… ←日本あるいは東洋=漢字文化圏の‘土着(??)’文化ですね) 

といったところで、お題の「井上ひさし」からはひたすら離れてしまうんですが、 「書」に関心があります。(今、急に、ちょっと関心があったことを思い出した、といった方が正しいかな) いや、武田双雲さんが健闘しているあの「書」の世界に関心がある、というわけではなくて、一連の「文字」を書く、あるいは「空間にディスプレイする」、という、パフォーマンスのようなアートのような行為に、関心があります。そういうことしてるアーティスト、確か、いましたよね? うーん、名前その他をすっかり忘れてしまったんだけれど・・・ 今思い出したいと思っている人(日本人)のほかにも、ネオン管で詩とか格言とか(じゃなかったかも)を‘書く’アーティスト(これは欧米人)もいたと思うんだけど・・・・・・

古今東西の文学や哲学から気に入った文章をピックアップして、それこそ墨に筆の「書」でもいいしネオン管でもいいしパソコンのディスプレイにフォントでも紙にタイポグラフィーでもいいから、「書物」とは違った仕方で空間に配置してみる、って、なんか、やってみたいなあ。まず、文字や断章をピックアップして、それぞれについて、その見せ方を検討するところから、「プロジェクト(!?)」をスタートさせなきゃいけませんね。

空間に「文字」じゃなくて「音声」を配置すると、それは朗読だとか演劇だとかに繋がっていく。んー、そっかー。

演劇、といえば、井上ひさしさんの芝居では(と、いきなり出発点に戻る)、大昔、学生劇団が演じる『日本人のへそ』を、最近では蜷川幸雄さんの演出による旧作『天保十二年のシェイクスピア』『表裏源内蛙合戦』『薮原検校』、新作『ロマンス』『ムサシ』(去年の初演のほう)を見ています。そうだ、『きらめく星座』(『ムサシ』のチケットがなかなか取れなくて、これとの抱き合わせでようやく入手できた…)も見てた。あと、DVDでだけなんだけど、『天保十二年の…』は、蜷川幸雄じゃなくて劇団☆新感線のいのうえひでのりによる演出の方も見ています。

井上ひさしさん、劇場の客席に座ってらっしゃる姿を何回かお見かけしました。エキセントリックな風貌というのはそんなに目立たなくて、逆に、なんだかとても普通に、小さく見えたことを覚えています。

「井上ひさし*その3」で、井上ひさしの戯曲について、私が見た限りで感じたこと、考えたことを書きたい。

もうひとつ、去年の太宰治生誕百年に絡んでNHK「クローズアップ現代」に井上ひさしさんがゲストとして出演したのを見たのですが、井上ひさしによる太宰治、とても明晰で、また、私にとってはすごく斬新で、面白かったYouTubeやNHKアーカイブで映像のストックを見つけられなかったことが残念なのですが… 「井上ひさし*その2」では、これを。いつになるかな。。

井上ひさしシリーズ、 「井上ひさし*その4」井上ひさしの小説を取り上げるところまで、どうにかこうにかたどり着きたいです。

では、また。

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2010.04.15

文楽公演『曽根崎心中』 / 縁の下から女の素足に触れて泣く男

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文楽を見始めてから日が浅いのだけれど、意外な‘発見’がありました。

不謹慎を承知で、やや頬を赤らめながら(?)、あえて口にしてみます。

「近松門左衛門は、‘隠れポルノ’かも!?」

見たのは、平成21年2月公演『鑓の権三重帷子(やりのごんざ かさねかたびら)』、平成22年2月公演『大経師昔暦(だいきょうじ むかしごよみ)』『曽根崎心中』の3作品です。

『鑓の権三重帷子』と『大経師昔暦』は‘姦通物’。どちらも当時実際起きた事件に脚色を加えたものということですが、いくつか共通点がある。女は、由緒ある家の妻。男は、女よりも若く、あるいは身分が下で女の家に仕える身、しかし誰もが一目置くような気立てのよさと才能を備えた「水も滴るいい男」である。この男には(仕事上の)ライバルがいて、その「男2」の方はといえば、あいにく性格が悪く才能がなく醜男で、そのくせ女に横恋慕している。

メインの男女の間の恋愛感情の有無が曖昧で(表向きは恋愛関係にない、となっている)、そこがわかりにくいというか現代を生きる私たちの感覚からは歯がゆい、あるいは腑に落ちない感じがするのですが、男2の介入や数々の手違いを経て二人は過ちを犯し(あるいは過ちを犯したと‘誤解’され)、そのために、手に手をとって逃避行へと向かわざるを得なくなる。

恋愛関係にない男女二人の逃避行って、やっぱりなにか不自然じゃありません? だからどうしても観る人は(たぶん私でなくても)、物語上の設定は「建前」あるいは「お約束」にすぎなくて、「本音」あるいは「真実」の部分は隠されつつ少なくとも当時の観客に了解されていたに違いない、と思ってしまう。この、「お約束」の裏の二重構造こそが、ほんとに、すごく面白い! 隠された「真実」を牽強付会に読み取るという行為に思わず夢中になる、というか。

(…と、はじめ私は、この「二重構造」の発見に有頂天になっていたのですが、これって実は「常識」だった!? ちょっと調べてみると、だいたいwiki近松の冒頭に、近松を語る芸術論として、「虚実皮膜論」=芸の面白さは虚と実との皮膜にある、って書いてあるじゃないですか。なぁんだ、そういうふうに観るのが普通だったんだ…)

と、まあ、それはおいといて。

そういや、お題の「隠れポルノ」がどこかへ行ってしまった?

いえいえ、ここからなのです。強引な「ダブルミーニング」の読み取りによる(←もしかしたらそっちの方が「常識」なのかもしれないんだけど)、「近松=隠れポルノ」説!!

『大経師』の方にはちゃんと二人の濡れ場が用意されていますが(…「暗闇」で「人違い」、という設定ではあります…)、『鑓の権三』の方には一見、ない。けれど、実は、隠されている! れっきとした藩の茶道役の妻である女が、自らが目をかけた若い男(…どう目をかけたかというと、自分の娘の‘婿候補’として、なんです(^-^; …)に、内密で、一子相伝の茶道伝授の巻物を見せる場面がある。「数奇屋の段」といいます。時は夜も更けたころ、場所は離れの「数奇屋」。薄明かりのともった障子に、巻物を見せる・見せられる男女の影が、向かい合って映る。この数奇屋に、男のライバル「男2」(男2は女に横恋慕しています)が、悪い仲間たちと一緒に押し入ってくるんです。これがまた、離れへ通じるぶ厚い垣根に、頑丈な樽で強引に穴をあけ、その樽の中を通って押し入る、という、なんともあからさまな(!?)やり方で、押し入ってくる。その頃数奇屋の室内で起きていることが、また、すごい。まず、女が嫉妬のあまり(一方通行ながら一応‘恋愛感情’も設定されていたようです)、許婚から贈られたという男の帯を解いてしまう。そして、代わりに私の帯を巻け、と自分の帯も解く。男の帯は女の手で、女の帯は男の手で、激情(…怒り、ということになっている…)のあまり、庭に投げ捨てられる。(…書いてみると、ほんとになんか、わけのわからない激しい展開ですねー…) で、この投げ捨てられた二人の帯を見て、押し入ってきた「男2」が二人の‘不義’を言い立て、ふたりは姦通の罪を着せられて逃避行に出ることになる(‘不義’など犯しておらず、互いの帯を庭に投げ捨てただけなのに!??)。そしてその果て、二人は女の夫によって討たれて死ぬ。

『鑓の権三』の「数奇屋の段」って、帯が乱れ飛ぶ真夜中の庭といい、垣根を樽で突き破って進入してくる別の男といい、ものすごく婉曲な比喩ですが、描かれているのは「濡れ場」そのものですよね。この婉曲さ具合が面白いなあー、と、私の場合は非常に感心して観ていました。

このもってまわった猥雑さは、人形遣いと太夫の語りでなくては表現しえない、とも思う。

で、本題(だったはず!)の『曽根崎心中』における、エロスです。

やっぱり『曽根崎心中』はだんぜん、面白い。本筋だけが凝縮されて短いところも、いい。

「濡れ場」は、三段構成の真ん中「天満屋の段」で、暗くあでやかに、情念を込めて描かれます。

あ、いや、上に引き合いに出したふたつの‘姦通物’とは違って、‘心中物’である『曽根崎心中』には、文字通りの意味での「濡れ場」ななかったでした。女は遊女、男はその客ですから、当然、性愛関係にあったということであり、劇中でそれをわざわざ婉曲に表現して見せるまでもない、ということですかね。

かわりに、二人が心中にいたる過程の描写が、間接的に、とてもエロティックなんです。

「天満屋の段」のエロスは、これまた常識、なのかもしれません。公演パンフレットの鑑賞ガイドに、こう書いてあります。

「忍んで会いに来た徳兵衛(*男)を見つけたお初(*女)は自分の内掛けの中に忍ばせて縁の下に隠します。店に現れた九平次(*男2)から徳兵衛の悪口をさんざん聞かされたお初が、独り言になぞらえて死の覚悟を問いかけ、縁の下の徳兵衛がそれに答えるところは、女の足首を自分の喉に当てるという官能的な仕草で表現される名場面です」(引用文中の(*)内は筆者による)

縁の下から女の素足に触れて泣く、美しい、若い男。

男女はこれから死出の旅に出る。

もうひとつ、同じ段の終盤、真夜中の暗闇に沈む遊郭「天満屋」を、二人が人目を忍んで抜け出すシークエンスが、すごいです。女が長い箒の先に扇を付け、2階から階下の行灯の火を消そうとする。なかなか消えない。女は階段から落ちてしまい、はずみに火が消える。真っ暗闇。が、女が立てた物音で下女が目を覚ます。廓の主人も目を覚ます。絶体絶命か。主人に命じられて、下女が火をつけようと火打ち石を探す。その間に女は、縁の下に隠れた男と手に手をとり、門戸口へと向かう。下女が火打ち石を打つ。闇に乾いた音が響く。コン。その音に合わせて、二人は戸口の車戸を引く。音が紛れる。もう一度、火打石のコン、という音。合わせてまた少し、車戸を引く。…以下、公演の床本より、近松の詞書き:

「下女は火打ちを『はたはた』と / 打つ音に紛らかし / 『丁』と打てば / そつと明け / 『かちかち』と打てば / そろそろ明け、合わせ合わせて身を縮め、袖と袖とを槙の戸や、虎の尾を踏む心地して、ふたり続いてつつと出で、顔を見合わせ / 「アゝ嬉し」 / と死に行く身を悦びし、哀れさ辛さ浅ましさ、後に火打ちの石の火の、命の末こそ」

思わず息を詰めて、舞台上を見つめていました。

(シェイクスピアは『マクベス』の、マクベス夫婦が王を殺したその夜、真っ暗闇に繰り返し響く戸を叩く音、怯えた目で見つめ合う夫妻、あれに匹敵する緊迫感、だったと思う。)

近松は、面白いです。

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文楽二月公演 『曽根崎心中』ほか
会場 国立劇場小劇場
会期 2010年2月5日(金)~21日(日)
演目 近松門左衛門作『大経師昔暦』『曽根崎心中』
出演 吉田蓑助(曽根崎心中、人形)
    竹本住太夫・竹本綱太夫(大経師昔暦、太夫)
国立劇場の
文楽公演 / wiki文楽/wiki 近松 / お薦め・近松
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