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2015年1月

2015.01.24

たまたまDVDで観た映画②:河瀬直美『2つ目の窓』に五感の奥底を揺さぶられる

■思いがけず届いたDVD映画鑑賞メモシリーズ・もう1作は、河瀬直美『2つ目の窓』(2014)です。じつは河瀬直美作品、食わず嫌いでずーっと気になりながらも全然観てこなかったのです(観ていたのは第一作『萌の朱雀』(1997)のみだった!!)でも、今回、偶然、DVD発売とほぼ同時のタイミングで届いたこの作品、よかったです。五感をフルに起動して感知する作品を撮る作家なんだ、とあらためて認識。ストーリー展開にはやや苦手感が残るのですが。二組の家族の二人の母親と主人公の女の子に作家自身の分身が投影されている、主人公の男の子には作家自身の息子への思いが、二組の父親=夫には作家の願望が投影されている、というふうに見えてしまう。私自身の勝手な誤読なのでしょうけれど。それに、だからといって、海の音、風の匂い、三線の奏でる原初の力を内包した音楽と踊り、生と死を超えていくものへの同化、といったモチーフを映像作品へと昇華する河瀬直美の圧倒的な力技に感嘆したことに変わりはないです。

たまたまDVDで観た映画①:70年代ノスタルジーSF娯楽アクション『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』

■やらなければいけないことが進まず、思わずしゃにむにDVDで映画鑑賞を重ねている。そんな動機では映画にも申し訳ない気がしますが、逃避先的DVD鑑賞メモ、第一弾です(この映画が好きな方には、ネガティブな書き留め方になっていることをあらかじめお詫びしておきます)。というわけで、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(2014)。結論としては、なんでこれ借りるリストに入れちゃったんだろう感が膨らんだ平凡なコミカルアクションSFでした体感アトラクション的にはたぶんよく出来ているから、劇場でなくDVDで鑑賞したのが根本的な間違いだった、という面も否めないのですが。SF大作時代の幕開け、1978年(スターウォーズと未知との遭遇が時代を切り拓いた頃!)に回帰してノスタルジーを煽る。70年代のディスコミュージックのカセットテープ(お母さんの形見でもある)を命綱のように大切にしている主人公(彼はまだ少年だった1978年に宇宙船で地球から連れ去られ、今はコミカルなちんぴら宇宙ギャングに成長している)とか、R2-D2とC-3POの凸凹コンビをそのまま‘しゃべるアライグマ’と‘木人間’のコンビに移し替えたようなキャラ設定(アライグマはドライな切れ者。で、木人間の方、木としては超人的(?)だが、発語に関しては自分の名前を言うこと(だけ)ができるなどなかなか愛嬌もの)、とか。ノリは完全に少年ジャンプです。もちろん、わるくはないのですが、‘アクション映画鑑賞者レベル’(?)が低い私が観るべき映画じゃなかった。私、日頃、観る映画を選ぶに当たってIMDb top 250を気にし過ぎていて、それが高じ、普段は観ないジャンルの映画だけど観ておかなければいけないかな感から、最近ランキング高位に入っている『アベンジャーズ』(2012)『X-MEN フューチャー&パスト』(2014)『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』(2014)を自分のTSUTAYA DISCASリストに加えてしまっていたのです。その勢いで(それら3作はというと未だ届いていない)、この作品もラインナップに混ぜてしまった、そしたら予想外に早く届いた、というのが今回の鑑賞に至る成り行きでした。こんどは逆の勢いで、自分のリストからアベンジャーズやXメンやキャプテンアメリカやその他のアクション映画の類いを全部削ってしまったのだけれど、それはそれでいつか後悔することになるのかなあ。。

2015.01.14

アングロサクソン系古典喜劇に疲れる

■TSUTAYA DISCASで届いた希少物件のクラシックシリーズ、フランク・キャプラ『毒薬と老嬢』(1944)ロバート・ハマー『カインド・ハート』(1949)を観る。この2作はどちらもIMDb top 250の200位近辺に時々ランクインする常連で、その割にレンタルで入手しにくかったので今まで鑑賞できずにいたもの。という具合に期待が大きかったので、かすかな‘ハズレ感’が、ひどく痛い。フランク・キャプラのハロウィーン‘コメディ’『毒薬と老嬢』の方は、ある家系をことごとく襲う‘狂気’を、かつて人の首を狩っていたインディアンの血に求めてまったく疑わず、しかもそれをドタバタコメディに仕立て上げているところが空恐ろしい。というか、当時の感性はそういうものだったのか、ということに直面して唖然とする。(ちなみに同じF・キャプラのクリスマス人情劇としては『素晴らしき哉、人生!』(1946)がありますね。)それにしても、インディアンと虐殺の記憶と現在の狂気を繋ぐモチーフは、S・キューブリック『シャイニング』にも通じますね。真逆からの取り扱いだけど。そしてこのキャプラ作品の狂気を扱う手つきの‘無邪気さ’は、いったいなんなんだ。わたしにはついていけませんでした。疲労困憊。一方で、続けて観ることになった『カインド・ハート』も、ある意味でドタバタ喜劇。毒薬と老嬢が新大陸の無邪気さなら、カインドハートはグレートブリテンの老獪さというべきか。それにしてもアングロサクソン系の喜劇ってこんなに酷薄なのか。(といきなり大上段に構えてしまう…知ってやしないのに……しかも、ケンブリッジ卒とIMDbにあるロバート・ハマーはともかく、フランク・キャプラの方はイタリアはシチリアから新大陸への移民の子なんだから微塵もアングロサクソン系ではないのに無理筋でひとくくりにしてしまうなんて………)ま、とにかく、カインドハートでは、平民との駆け落ちで生まれた貴族の血を引く子が長じて、自らとその母を冷遇した一族への復讐を企て連続殺人を実行し公爵家の後継ぎへと成り上がり、土壇場で転落する。主人公に殺される貴族の一族を一人で演じ分けたアレック・ギネスの一人8役が、唯一の見どころのような気が。一人多役というと、またまたS・キューブリックの『博士の異常な愛情』のピーター・セラーズが思い起こされる。それにしても、毒薬老嬢カインドハートのどちらも「はぐらかし」の連続が妙味なのかもしれないけれど、私はあんまり好きになれなかった。エドガー・ライトの一連のコメディが苦手なのと近い感じ。私の「逆ツボ」(??)にハマった。あるいは私、もしかして、基本的に、喜劇への感受性に欠けている?………

2015.01.13

「言論の自由」と、国家や宗教のレベルでの「名誉毀損」と。

■2015年1月11日の日曜日に、パリで反テロリズムと言論の自由を訴える巨大デモが行われた。各国首脳がデモの戦列に加わる、って、歴史的にも今までない光景なのでは。デモは「民衆」のもの(「首脳」は糾弾される側)、みたいな、私のなかのステレオタイプに照らし合わせると、どこか奇妙な居心地の悪さを感じる。欧米vsイスラム、それはもう世界史レベルの地殻変動で、これが今まさに可視化されているんだな、みたいな気分。

■そして同時に、新聞社襲撃犯に射殺されたアルジェリア系イスラム教徒の警官や、あるいは、デモ隊のプラカードやテレビ画面のオバマ大統領の胸のバッヂにある「Je suis Charlie」の標語に思いを馳せる。

■Wikiをチェックすると、襲撃された週刊風刺紙「Charlie Hebdo(シャルリー・エブド)」はルーツを1960年創刊の月刊誌「Hara-kiri(アラキリ)」(腹切り!!)に持ち、発禁・復刊を経て1970年、「Charlie(シャルリー)」と名を改める。その紙名の由来はチャーリー・ブラウンにあった(イタリアの月刊バンド・デシネ誌「ライナス」の仏語版として再スタートした)、とのこと。ハラキリとチャーリー・ブラウン! なんだそれは。読んでみたい。シャルリー・エブドはどんな新聞で、その読者はどんな層なのだろう。

■(私の中で連想されるのは、今は亡き『噂の真相』とか、70〜80年代初頭を華やかに飾った懐かしき『ビックリハウス』とか、なんだけれど、これはわずかでも的をかすっているのか全然見当違いなのか?)

ハフィントン・ポストが伝えている、テロの犠牲になったパリのアルジェリア系イスラム教徒の警察官の名はAhmed Merabet(アフメッド・メラベ)。自らの宗教を侮蔑した新聞社の権利を守る過程で殉職した、という現実の、含意の苦さ。「Je suis Ahmed(私はアフメッドだ)」「Je suis Charlie(私はシャルリーだ)」の間の距離。

■NHKのニュースは、パリのデモに参加したムスリムの女性(スカーフを着用していた)にインタビューしていたが、パリに住む普通のムスリムたち(テロリストではない)はだいじょうぶだろうか。そういえば2001年のNY同時多発テロのとき、私自身は、あまりNYのムスリムに思いを馳せなかった。ムスリムはNYよりパリに親和性があるような、あまり根拠のない思い込みがあって、だからこそ一層、彼ら・彼女らの現況が気になる。

■仮に、シャルリーによるムハンマド風刺漫画と、ハリウッド(ソニーピクチャーズ!!)による北朝鮮金総書記風刺映画を並べて見てみる。言論の自由はもちろん一義的に重要なのだけれど、それを大前提とした上で、からかわれた側が取りうる「別の方法」について考えてみる。つまり、テロリズムによってでなく、順法的に、たとえば「名誉毀損」を訴えることによって、イスラム側(あるいは北朝鮮!)が相手(欧米)に対抗するという方法はなかったのだろうか。素朴な疑問なのです。イスラム教徒、北朝鮮政府、などの、国家以上のサイズの巨大で‘抽象的’な集団は、訴訟の当事者となるに向かないのだろうか。相手の土俵で裁かれることを忌避するという、「場」の問題なのだろうか。国際法廷にはそういう役割は割り当てられていなさそうな気がするし。これらは、法学や国際関係論をちゃんと学んだことのない私にとっては未知の、本当に素朴な問いです。

■(そして、「怒り」の制御、という大きな問題。)

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