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2014年10月

2014.10.14

引き続きゴーゴリ、狐と狸の化かし合い喜劇『査察官』/ 話は飛んで、橋本忍『複眼の映像』の息を呑む面白さ

ゴーゴリ古典新訳文庫(光文社、浦雅春訳)より、先日の短編小説『鼻』に続いて戯曲『査察官』を読む(一番有名な『外套』は、わりと最近再読していたので飛ばす)。当時のロシアの社会を戯画化したということかもしれないが、下品であさましい小悪党や、スポイルされた有産階級の婦女子若造が次々と出てきては、だまし合いというか化かし合いというかを繰り広げる話で、途中けっこううんざりもしたんだけど、最後のどんでん返しに至るシークエンスと、どこか「映画的」な、人を喰った‘ストップモーション’が見事だと思った。フィクションの出自を物語本体の中に組み込んだかのような‘手管’にもドッキリ。(ここで繰り広げられたばかばかしい騒動---田舎の悪徳名士たちの実態---を、19世紀当時は時代の先端だったに違いない新聞だか雑誌だかの書き手へと、主要人物のひとり(主人公といっていいのかな?)が‘リーク’するくだりがあって、このことで戯曲自体が突然なまなましいリアリティを獲得したように感じた。)

メモ程度に、『外套』について。外套の主人公、19世紀ロシアペテルブルグの下級役人に私は、黒澤明『生きる』(1952)の志村喬の影を見ました。橋本忍・小國英雄・黒澤明の3人の脚本家チームの誰かが、ゴーゴリ『外套』を、キャラ造形(橋本忍の著書の表現に従えば「人物の彫り」)のヒントにしたんじゃないかなあ。と思って橋本忍『複眼の映像 ---私と黒澤明』(文春文庫)を読み直してみたんだけれど、そういう気配はなし。「小役人」の像が偶然、一部、重なっただけというだけなのかな。

それにしても、周知の事実かもしれませんが、橋本忍『複眼の映像 ---私と黒澤明』(私の手元にあるのは文春文庫2010年刊。単行本は2006年刊)は、息を呑むほど面白い。(←ベタな表現ですが、そんな感じ。) 名著ですよね。圧巻は、『羅生門』『生きる』『七人の侍』の三作の脚本が生み出された過程を回想し、克明に綴った一連の記述ですが、私が個人的に強い感銘を受けたのは、橋本忍が伊丹万作のただひとりの弟子として出発していたこと(その事実のディテール)です。もうひとつ。世界の巨匠としての黒澤明をかたちづくった前記の傑作三本を世に出した後の黒澤のゆるやかな‘没落’、その過程で、脚本家チームの人間関係が豊かに、線香花火のように輝いた一瞬---『隠し砦の三悪人』の共同脚本執筆の際、カンヅメになっていた旅館の夕食で、当時のスター脚本家4人(菊島隆三、小國英雄、橋本忍、黒澤明)がそれぞれ自分の出身地の‘郷土料理’を、順番に、全身全霊を込めて披露していくくだり---の記述です。それ自体が映画のいちシーンであるかのように、鮮やかで深い余韻を呼び起こす。うーん、すばらしいー。

ちなみに私、黒澤明『隠し砦の三悪人』(1958)がけっこう好きです。アクション映画としての疾走感(騎馬で矢を放つ三船敏郎)、あと、祭りの「火」のデモニッシュな強さ。モノクロ映画の臨界を突き破るほどの表現力だと思う。(21世紀に入ってからのリメイクの方は見ていません。絶対あの強さは再現出来ようがないと思っていて、見たくなかった)

あと、話は行きつ戻りつ腸捻転を起こしそうですが、ゴーゴリといえば、ジュンパ・ラヒリ『その名にちなんで』(新潮社、小川高義訳による単行本2004年刊)ですね(映画の方は見てないです、そういえば)。……と思って本棚を探してみたけれど、あるはずの本が見つからない。あああああ本の整理をしなければ。

2014.10.13

嵐の夜に嵐の映画を観る

「嵐の映画」とは、W・アンダーソン『ムーンライズ・キングダム』(2012)のことです。ウェス・アンダーソン節、全開。絵本のような、寓話のような、独特の世界。どこかディメンションが狂った蛍光パステル色のジオラマ風舞台装置のなかで繰り広げられる、屈折した少年と屈折した少女によるW・アンダーソン流「小さな恋のメロディ」でした。楽しかった。島の警察官ブルース・ウィリスや少年が所属するボーイスカウトの団長エドワード・ノートン等、脇を固める人気俳優たちのとぼけた味もよかった。全体に、次作『グランド・ブダペスト・ホテル』と、思ったよりずっと「近い」感。で、舞台となる島の‘主’みたいなナレーター、真っ赤なダッフルコートを着たおじいさんがこの物語の冒頭であきらかにするように、「3日後に大嵐が来る」ということが、この映画の隠れた主題です(と、勝手に言い切る)。小さな恋人たちの一途で奇妙な愛の逃避行は、この「嵐」へ向かってクライマックスへと上り詰める。たまたまそれと呼応するかのように(って、私がそのタイミングでDVDを観ていたってだけのことですが)、今日は日本列島を台風19号が縦断していたのでした。

2014.10.12

ゴーゴリ『鼻』に埋め込まれた19世紀ロンドンの猟奇譚スウィーニー・トッドのことなど

高2息子から学校の課題図書ゴーゴリ『鼻』(光文社古典新訳文庫、浦雅春訳)を差し出され、「これってどう思う?」と聞かれたので、読んでみた(昨日の午後のことです)。落語のような文体の訳文、カフカ『変身』の先駆かよ、とも思える奇天烈な展開であちこち笑えるので笑いながら読んでいたら息子には「笑える話?」とまずそこで驚かれる。いつのまにか消失した主人公の小役人の鼻、床屋が食べるパイの中から出てきて川に捨てられたり、主人公より等級が上の役人になりすまして馬車に乗っていたり(人間の身の丈サイズの鼻??)という「自立心豊かな」鼻(!!?)も、すったもんだの騒動の末とはいえとりあえずいつのまにかまた、主人公の顔の真ん中にもどってきて事なきを得た(????)ようなので、息子には「夢の話じゃない?夢オチ」「この主人公の小役人にとって、なくなってまた戻ってきた‘鼻’とはいったい何だったのか、みたいなことを考察してレポートにまとめればいいんじゃない?」などとアドバイスしておいた。(息子の返事は、「そんな問題は出ない」というそっけないものだったんだけどね。)

…で、そのあと一晩寝て起きたらふと、あのゴーゴリ『鼻』の導入部は、まんま『スウィーニー・トッド』じゃないか、と思い当たる(ミュージカルや映画にアレンジされた方ではなく、その元になった19世紀のロンドンで流行したという都市伝説の方)。そっか、ゴーゴリは、ロンドンの連続殺人鬼の床屋がその愛人のパン屋のおかみと共謀して、殺した相手をバラバラにしてパイに焼き込んで売り捌いたという当時よく知られていたらしい猟奇譚(もとになる史実が存在したかどうかは不明)をヒントに、というか導入にして、小役人の生態と心理を短編風刺小説に仕立てた、と、そういうことね、と思ったのでした。

(これって実は‘常識’の範囲内なのかも、と思ってネットを探し回ってみたんだけれど、いまのところネットの中では、日本語でも英語でも、ゴーゴリ『鼻』とスウィーニー・トッドを関連づける記述には出合えてない。ん?、という感じではあるのですが。。。)

2014.10.10

構造の脆さが本質的な欠点に思えるD・ヴィルヌーヴのサスペンス映画

DVDで観たドゥニ・ヴィルヌーヴ『プリズナーズ』(2013)の後味が悪すぎて、というかこの嫌な感じ、不承認の意思表明をどういうことばにしたらいいのかなかなか整理がつかなくて、IMDbやrotten tomateを回遊し過ぎてしまう。

サスペンス映画、スリラー映画、といったジャンル内映画と考えれば、非常に優れた作品なのかもしれない。ペンシルベニア郊外の森林地帯に近接した住宅街の、どこか寒々とした風景をじっと凝視するかのような視線が全編を貫いていて、映画の表現の質としては「A級」を感じるのです。観る人を惹き付けて離さない(私も惹き付けられました)。ただ、同じ監督の『灼熱の魂』(2010)でも同様に感じたのだけれど、その非常に込み入ったプロットは結果的に‘見せかけ’に過ぎず、観客への‘脅し’としてしか機能していないという気がしてならないのです。灼熱の魂におけるギリシャ悲劇を思わせるような重厚で大仰などんでん返しも、プリズナーズにおける二転三転の末の思いがけない結末、冒頭の鹿撃ちの場面から通奏低音のように響く聖書の文言信心深いプアホワイトとしての主人公の造形、ラストシーンで幻聴のように地下から響く赤いホイッスルの音(彼は生きて発見されるのだろうか…)も、一見深遠で衝撃的であるかのような気分に陥るのですが、でも、そこに至るディテールを追っていくとあまりの構造のもろさに全瓦解してもしかたないんじゃないか、と、私は思ってしまうのです。本質はシンプルなジャンル映画なのに、なにか存在の根源に迫っているかのような「偽装」をしている、あるいは「錯覚」をしているんじゃないか、と。無駄な装飾が多すぎる、と。ヒュー・ジャックマンに焦点を絞って観ればいいのかなあ。いやぁそういうわけにもいかないし。私はやはりしっくりこないです。

と、これだけ言葉を費やした以上、手短かに作品の紹介を。ペンシルベニア郊外の住宅街で、サンクスギビングの日、小さな女の子二人が行方不明になる。この地域に眠っていた小児性愛者による陰惨な未解決事件の影が次第に浮かび上がる。暴走する少女の父親。事件は果たして解決されるのか。『羊たちの沈黙』『ミスティック・リバー』『ゾディアック』等の名作もしばしば引き合いに出される、緊迫感溢れるサスペンス映画。

2014.10.06

『RUSH』は二度観ても十分面白かった / 佐世保事件その後の後味の悪さ

高2息子を付き合わせて、ロン・ハワード『RUSH ラッシュ/プライドと友情』(2013)のDVDをもういちど観る。息子は今日、台風のための休校で在宅。2度目の鑑賞でも十分面白い。どこがこんなに面白いんだろう。いろいろな意味で完璧。レースの迫真性。緊張がとぎれない画面構成。色彩と音、音楽。ふたりのレーサーの個性の描き分け方。たとえばニキ・ラウダの方は、たぶん、「プライドと友情」みたいなサブタイトルが付くこれ以外の凡百の映画でなら、主人公にもっとも相応しくないキャラクター、もしくは‘悪役’として描かれやすいキャラクターに違いない(一緒に観ていた息子は、ついこのあいだやっぱり一緒に観た『スティーブ・ジョブス』を連想したようで、ラウダ=ジョブス説を唱えていた)。だがRUSHでは、人から好かれようという発想のないこの孤独な天才ラウダが、肯定的に、多面的に描かれる。もう一方のジェームズ・ハントについてもしかり。まぁジェームズ・ハントの方はいかにも破天荒で、破天荒さゆえの欠点と魅力を備えたレーサーとしてアクション系の映画には生来なじみがいいと思うが。この二人のパートナーとなる女性も、それぞれ、いい。二人二様、とても緻密に描かれている。‘善悪’ならぬ、‘好悪’の彼岸。極限まで生きるということの裏表を感じ取らせてくれる映画。映画館で観たかったなあ。

昨晩なぜかものすごく眠くて早寝したため深夜のニュースを見逃したのだが(そして今朝のニュースは台風レポート一色でTVでは確認できなかったのだが)、昨日佐世保事件の女子高生の父親が自殺していたことを知って衝撃を受ける。時期の近さ、などから、思わず理化学研究所・笹井芳樹氏の自殺が重なって見えてしまう。この二人の男性の「順風満帆な」エリート人生を遮ったのは、若い女子による桁外れの‘蛮行’だった。みたいに。あまりに過酷な「身から出た錆」。それともある種の「呪い」か。かたや実の娘による間接的な「復讐」、かたや無意識の「魔女」によって仕掛けられた罠。

2014.10.05

思いがけない傑作『RUSH』に、‘あしたのジョー’を連想する

■台風が迫ってきていて気ぜわしいので、先週新宿に行った時TSUTAYAで借りてきたVHS物件を前倒しでダビング&鑑賞し、昨日のうちに返却宅急便に出した。エドワード・ヤン『クーリンツェ少年殺人事件』(1991)以外のもうひとつは、同じ台湾よりホウ・シャオシェン最初期の作品『風が踊る』(1981)。この『風が踊る』、ツッコミどころの多い作品で全体としてはううう〜ん、なんだけれど、それでも最初から最後まで観る気を繋ぎ止めてくれるくらいの“強さ”があった。

■TSUTAYA DISCASから届いていた新作DVDよりロン・ハワード『RUSH ラッシュ/プライドと友情』(2013)を観る。絶対自分から進んで観る類いの作品ではないんだけれど最近のヒット作だし、世評がひじょうに高いみたいなのでなんとなくdiscasにリクエストした。そうしたら思いがけず「当たり」物件だった!!ボクシングに興味がなくてもあしたのジョーは面白いでしょ、に近い感覚で、F1レースにまったく興味のない私にも十分面白い実録レーサーライバル物語。こういう意外な出合いがあるから、世間の評判のチェックも大切だなぁと思う。

2014.10.03

柳の下に二匹目のドジョウ!?『三四郎』百余年ぶり再連載もけっこうイケます

そうだ10月1日から漱石『三四郎』百何年ぶりだかの新聞再連載、例の『こころ』再連載成功の二番煎じ企画(!?)が始まっていたはず、と気づき、朝日新聞デジタル版朝刊(紙面スタイル)を急いで2日遡って第1回から読み始める。これがまた面白いのです。三四郎も少なくとも過去に1回は読んでいるのだが、書かれた当時と同じ新聞連載のリズムで読むというのは目新しくも楽しい経験。三四郎って、我が輩は猫であるとか坊っちゃんとかと同様の‘ユーモア小説’だったんだー。けっこう笑えます。

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