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2014年9月

2014.09.30

インド映画の陽気さと筋の込み入り方について / 神は限りなく残酷

新宿シネマカリテにインド映画『バルフィ!人生に唄えば』(2012)を観に行った。『きっと、うまくいく』(2009)と、系統としては連なるのかな。陽性でエンタメで無駄に?といいたくなるほど筋が込み入っていて長大で盛り沢山な映画。映像が美しかった。音楽が古典映画風。そもそも、名作喜劇サイレント映画多々への強いオマージュが、「周囲を笑わせるのが大好きな聾唖者」という主人公の造形に結晶している、と思った。わたし的には、そういうディテールを解読する意味で面白い映画、という感じかなあ。いかにも映画好きの監督が過去の映画を参照した上でディテールにこだわりながら映画を撮っているという意味で、W・アンダーソン映画に近い面もあるように感じた(が、私は、なぜかこの映画をW・アンダーソン映画みたいには楽しんで観られない)。あとひとつ、こんなことで申し訳ないんだけれど、主人公の男のルックスが好きになれなくて、それが災いしてマイナス点を付けてしまう面もありました。(彼をめぐる二人の女性を演じる二人の女優は美しくて、加点倍返し(?)ものです。)(だいぶ昔ですが、私には過去にやはり、主人公の男のルックスがどうしても好きになれなくて…というなんだか非常にくだらない?理由で忌避してしまった映画があります。それは、フランソワ・トリュフォー『突然炎のごとく』(1961)。あのジュールとジム……。でもトリュフォーを近日まとめて再鑑賞したい気持ちが高まっているので、するとまた別の見方ができるか。。。)『バルフィ!』に話を戻すと。聾唖者の男性と自閉症の女性のカップルを中心に据えているところから、ちょうど公開されてから日が浅い『チョコレートドーナツ』(2012)(ダウン症)や『シンプル・シモン』(2010)(アスペルガー症候群)を連想しました。この2作は未見なので、観てみなくてはとも思う。

■ここ数日の間にレンタルDVD、VHSの類いで観たのはルイ・マル『地下鉄のザジ』(1960)、ジャック=イヴ・クストー+ルイ・マル『沈黙の世界』(1956)、エドワード・ヤン『嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』(1991)(クーリンチェは前半を観たところ)。どれも書きたいことがいっぱい。

■すでに数日前となるが、土曜日、お昼前に御嶽山が噴火した。紅葉シーズンの快晴のウィークエンドの、朝から山頂を目指しただろう人たちが火口近辺にようやく到着する時間帯、そういうタイミングでの突然の噴火。時間が経つにつれ、大惨事の様相が濃くなっている。この世に神はいないんだな、というか、神は限りなく残酷なんだな、と思う(萩尾望都のマンガに『残酷な神が支配する』ってのありました)。この穏やかな気持ちいい季節に、観光地でもある神聖な山に登るグループ、カップル、単独クライマー、そういう健康的で前向きで努力家な、「善良な」人たちを狙い撃ちしたかのような大きな災厄。

2014.09.12

文豪ググ祭りの意外な愉しみ / 40年以上前の前衛演劇論(P・ブルック)が古くない

朝日新聞が死にかけている。先月の慰安婦報道訂正と昨日の福島原発吉田調書誤報謝罪で。まあそれはいいとして(よくない?)、朝日新聞で‘100年ぶりに’再連載されている新聞小説・夏目漱石『こころ』は、今日9/12の朝刊に掲載された、初出大正三年八月三日の「百二回」でとうとう、「K」が自殺しました。ここのところ、デジタル版(紙面スタイル)を時折チェックしながらずーーっと、いつ自殺の回になるのだろうか、と気にしていたもので。100年前かー。重い。

勢いで思わず、昨日の「澁澤龍彦」に続いてまた、怒濤のググウィキ祭りに走ってしまいました。馬鹿です。「こころ」への拘泥から芋づる式に、芥川だの太宰だの三島だの川端だの自死した文豪を手繰り寄せてしまった。漱石は自死していないですけれど。あ、「こころ」連載(1914年)から遡ること11年、1903年に、漱石の一高の受け持ちの生徒・藤村操が華厳の滝で入水自殺していますね。有名な事件。Wikiには「やる気のなさを漱石に叱責された数日後、自殺した」(←これは知らなかった…)と記載されているけれど、因果関係はあまり表立って取沙汰されてはこなかったような印象。

(自死に関連して、モーリス・パンゲ『自死の日本史』を再読してみようか、とも思う。)

ところで文豪関連ググ祭りを実行すると、時折笑えるまとめページなどを発見できて、これが意外に楽しいです。たとえば「夏目漱石 こころ」でググると出てくる、「夏目漱石のこころとかいう小説wwwwwww:腹筋崩壊ニュース」 というページ。2ちゃんねるのスレッドをまとめたもののようなんだけれど(←よくわかっていない)、作品中の登場人物の重要な台詞「精神的に(S)向上心のないやつは(K)馬鹿だ(B)」を「SKB」と略して美少女日常系アニメ画(オリジナル)を添える。とか。「遺書長すぎだろどんだけノリノリやねん」「先生って言われてるが遺産だけが取り柄のニート」とか。「K」の墓にもたれかかって泣く着流しイケメン風「先生」の後ろ姿のイラストとか。先生について共感?を込めて「リアルなクズっぷりだった」とか。「先生」「K」「未亡人」「お嬢さん」の4人を今風キレイ絵のイラストでキャラクター紹介したものとか。(←先生、未亡人、お嬢さんは細面の美形、Kがむさくるしい浪人顔で描かれていて、その、場当たり的かもしれないけど誰もが納得してしまうような‘解釈’に感心し大笑いしてしまう。)「こころ」が今の若い人たちの心情にもリアルに触れてくる普遍的な作品だということの証左ですよね。すごい。このページでは森鴎外『舞姫』、梶井基次郎『檸檬』、中島敦『山月記』もネタとして扱われていて、そのこと自体がこれらの作品の「現在性」を逆照射しているって事態ですね。ちなみに、「芥川龍之介」でググるとなんと最初のページの4項目め!に出てくる「【文豪の片思い】太宰治が芥川龍之介のことを好きすぎてヤバい!-NAVERまとめ」  というページも笑えます。こうしてネタにされるということは、太宰という作家もやはり普遍的に‘現在’であり続ける「愛されキャラ」なんだなあ。

午後、ノマド読書。こないだ青山ブックセンターで買ったピーター・ブルック『何もない空間』(1971初版、晶文社)を読む。歯切れよく明快で、具体的で、40年以上前の本だというのに今なお新鮮な前衛演劇論。

本日のDVD鑑賞は、さらっと、若き日のブラピ出世作でロバート・レッドフォード監督の『リバー・ランズ・スルー・イット』(1992)。公開時、その後とも観ていなくて、初見です。川面に輝く一面の光が美しい。1920年代禁酒法の時代、大都市ならrolling20sの同時代のアメリカの、大自然に囲まれたど田舎モンタナ州の保守的にして信仰厚い一家の静かな生活。‘高貴’にして荒々しくそれでいて知的なフライフィッシング。抑制vs逸脱。影と闇の存在。逸脱と闇の側へと滑り落ちていく若き美しき無謀なブラピ、そして、静かに語られる‘悲劇’。甘美にしてどこまでも哀しい回想。無意識に反芻してしまう映画でした。それだけブラピが魅力的なんだけどね。それにしてもR・レッドフォードとブラピは確かに似ている。ブロンドで美形っていう点だけかもしれないけれど。R・レッドフォード主演作、特にアメリカン・ニューシネマ系の作品はもう30年来観ていないので、そちらをまとめて鑑賞し直したくもなりました。(あっそういえばこの『リバー・ランズ…』は、「普通の『いい映画』」の類いだと思います。自分で自分の首を絞めている……)

2014.09.11

普通の「いい映画」について

朝のニュースで「東日本大震災から3年半」と告げられるのを聞き、とすると今日は「9・11」か、と思う。13年を経過した9・11には一言も言及がない。そういうものか。

マシュー・マコノヒーの体を賭けた演技で話題になっていて米アカデミー賞主演・助演男優賞も取っているジャン=マルク・ヴァレー『ダラス・バイヤーズ・クラブ』(2013)をレンタルDVDで観る。1980年代、エイズが猛威を振るい始めた時期に、少しでも長く生き延びるためにあらゆる手段を講じて無認可の薬物を入手し、違法であることは承知の上で自分とエイズ患者たちのためにそれらを有料で会員に分配する‘ビジネス’を創始した一人のジャンキーの男をめぐる話。エイズが同性愛者の病気だと考えられ酷い差別を受けていた頃、M・マコノヒー演ずるところの主人公の男は、性的志向はストレートなのにたぶん度を超えたジャンキーだったおかげでエイズを罹患した。この、もともとは同性愛者への強い差別意識を持っていた粗野で女好きなジャンキーの男が、紆余曲折・悪戦苦闘の末、自身の内なる差別意識を超えていくところが見所。美しく誇り高い同性愛者でのちにマコノヒーの相棒となるレイヨン(レイモンド)を演じている助演のジャレッド・レトが、いいです。

監督ジャン=マルク・ヴァレーはカナダ人。最近カナダ人監督の活躍が目立っているような気がする。他に『私はロランス』『トム・アット・ザ・ファーム』の新鋭・グザヴィエ・ドラン、『灼熱の魂』『プリズナーズ』『複製された男』のドゥニ・ヴィルヌーヴ。けっこう技巧派の監督ばかり、の感。)

(…とか言いつつ実はこのダラス・バイヤーズ・クラブ、見終わった時点では、まぁよくできた映画だけどそれ以上じゃないね、なんてつぶやいていたわけです。80年代に図書館でパソコン(インターネット)を使って---古っぽい機械だったけれど---調べ物していたの、時代考証的にありうる?みたいに難癖をつけたり。でも、助演のジャレッド・レトがよかった、みたいに思い返しているうちに、なんだか上記のようなサマリーを書いてみる気になってきたのでした。)

いい映画、よくできた映画、といえば。この『ダラス・バイヤーズ・クラブ』とか『それでも夜は明ける』とか『そして、父になる』とか『さよなら渓谷』とか『ペコロスの母に会いにいく』とか。深いテーマ、誠実な描き方、その他いくつも美点を備えている。でも、普通の映画だな、と思ってしまう。よくできた「普通の」映画。表現としての新しさとか存在の核心に迫ってくる怖さとか無類の美しさ・楽しさとかから遠い。言い換えると、私が映画に求めているのは上記の3点ということなのですね。(などと考えていたら、上にランダムに上げた最近の「普通のいい映画」のリストの中では『ダラス・バイヤーズ・クラブ』は他とは違って、「存在の核心に迫ってくる怖さ」に接近していた面がある、と思えてきたわけで。)

このあいだ青山ブックセンターでまとめ買いしたうちの一冊、東雅夫編『幻想文学入門』がきっかけで、「澁澤龍彦」にハマり込んでしまう。際限なきググり&ウィキりめぐり。ググとウィキに向かうと勢い、作品よりも人生、それもゴシップ系の方角に果てしなく検索先が流れていってしまうところが情けない。澁澤龍彦の場合は矢川澄子と澁澤龍子の方へ。矢川澄子2002年71歳での自死を知らなかった。妹が小池一子だということも。1960年代30代の澁澤と矢川、「永遠の少年少女夫婦」という(グロテスクな?!)存在の様態に思いを馳せる。あるいは、「自死」というテーマ。

(10代の頃の私のバイブルは桑原茂夫編『アリスの絵本』。そして「アリス」を象徴する文学的イコンが矢川澄子と金井美恵子だった。

2014.09.05

R・ポランスキーの不条理劇とF・ドルレアックの存在感に心奪われる

ローレンス・オリヴィエ×マイケル・ケイン出演の『探偵スルース』(1972、監督はジョセフ・L・マンキウィッツ(渋谷TSUTAYAで借りたVHS物件)、見終わったあとしばし放心。ローレンス・オリヴィエがなぜ「名優」の代名詞なのか、初めて納得した感あり。そして、サー・ローレンス・オリヴィエの向こうを張って一歩も譲らない若きマイケル・ケインの演技力。作品自体の「完全なる二人芝居」「ほぼ密室劇」としての強度に圧倒された(舞台作品の移植ゆえの特性ではあるが)。

壮年の男、若い男、女の三角関係、二転三転する緊迫の密室劇、という型に着目するなら、ロマン・ポランスキー『水の中のナイフ』(1962)と、この『探偵スルース』を並べてみたい気もする。(『水の中のナイフ』はオープンエアが舞台でありながら‘密室劇’の趣)(あ、しかし、「スルース」は三角関係でありながら登場人物は男二人だけだ…)

また別の話。「スルース」導入部に出てくる生け垣迷路の庭園、あの、謎が謎を呼ぶ雰囲気、こんぐらがった愛憎関係の糸を象徴するかのような舞台装置が、S・キューブリック『シャイニング』(1980)に出てくるそれとよく似て見えた。こういう庭園迷路がイングランドにはいっぱいあるんだろうか。(……あ、いや、「シャイニング」の舞台はコロラド山中の実在のホテル、撮影はこれを正確に模してイギリス国内につくったオールセットでしたね……)

そうそう、昨日鑑賞したロマン・ポランスキー『袋小路』(1966)奇妙さ・面白さを書き留めておかないと。【ネタバレ注意】コメディエンヌ/不条理劇女優としてのフランソワーズ・ドルレアック。すっぽんぽんの裸になって走って地平線の向こうの海岸まで泳ぎに行く後ろ姿、はるかかなたの海辺から一直線に裸でもどってきて途中で脱ぎ捨てたローブを拾い適当に身にまとう一連の動き、これだけでも何か体の表情に可笑し味がある。不思議な女優。/→冒頭。まっすぐ道路に沿って電柱が並ぶだけの殺風景な田舎の景色、そこに故障して止まった悪人2人組のボロ車、ひとりは腹を撃たれて動けず、ひとりは腕を端切れでつっている。腕を吊った方が電話を求めて岬の‘城’に向かいそこから戻ってくるまでの間に、潮が満ちてきて道路は完全に水没、ボロ車は内部まで浸水してもうひとりの悪人の方は溺れかけている。そのシチュエーションだけでまず、可笑しい。そんなことあるかよ?、という感じ。/→ニワトリだらけの‘城’、ニワトリの卵だらけの冷蔵庫の中も、しかり。/→夫婦の城のすぐそばを低空で飛ぶ1日1回‘定期便’のジェット機。(悪人その1が‘悪の組織’からの迎えの飛行機だと勘違いして狂喜し、次いで失意に沈んだ。)/→真っ平らな景色の中のたった一本の道を毎日消し去る潮の満ち引き。奇妙に乾いた、‘大がかりな’孤立感。/ヒッチコック『北北西に進路を取れ』(1959)のあの、見渡す限りの原っぱに一本道、そこに轟音をたてて飛行機が飛んできて主人公が逃げまどうシーンへのオマージュも見て取れるね。/→豊かな長い髪をなびかせて子鹿のように飛び回る奔放な若い妻、スキンヘッドの中年男で臆病者の夫。このアンバランスな夫婦の醸し出す不協和音と不条理感!(最初にドルレアックが画面に登場したのは、浜の岩場で近所の少年とじゃれあっている様子を悪人その1が盗み見る、というカットだったので、そもそもこのドルレアックと禿頭のドナルド・プレザンスの二人が「夫婦」だというのに観客は「えっ?」と思う。*そう思わせるように構成されている)/→悪人が心待ちにする犯罪組織のボスはいっこうに姿を現わさず、代わりに夫婦には客が入れ替わり立ち替わり訪れる。悪人が待ち呆ける姿に、「ゴドーを待ちながら」が重なって見えた。/→あたかも戯れのように発砲される銃、庭に掘られる墓、このあたりが、たまたま続けて観た「袋小路」「探偵スルース」の二本に共通していた。偶然。/→その場をとりつくろうための即興芝居の妙。悪人その1は、突然やってきた客の前で、きゅうきょ‘使用人’を演じることになる。横柄に彼をあごで使う妻、調子っぱずれなフォローを繰り出す夫。/ドナルド・プレザンスの不条理喜劇芝居も、過不足なく、いい!

…と、断片的なメモばかりではアレなので、「袋小路」のサマリーを少々。→なにか悪事を働いて逃走してきたらしい悪人2人組の車が海辺の一本道で立ち往生する。ふたりとも怪我を負っている。動けない一人を車に残し、もう一人が、崖の上に見える古ぼけた‘城’に向かう。そこには中年男と若い妻の奇妙な新婚夫婦が暮らしていた。ボスに連絡を取ったあと電話線を切り、‘城’に立てこもって悪人仲間が助けに来るのを待とうとする悪人その1。車から運び込まれた悪人その2は、その晩、庭の食卓の上に寝かされたまま息絶える。悪人に助けは来ない。夫婦には何組も客が訪れる。不協和音が増していく。あらゆる隙間にほころびが生じ、やがて破綻が訪れる。

同じポランスキーの初期モノクロサスペンス、カトリーヌ・ドヌーブを配した『反撥』(1964)フランソワーズ・ドルレアックの『袋小路』(1966)は、どちらも密室と狂気と美女にまつわる話。前者は暗く、後者は奇妙に明るい。どちらも最後に派手に破綻する。破綻の派手さ・無意味さにポランスキーの真骨頂が垣間見える。(不条理で滑稽な「破綻」こそが、ヌーヴェル・ヴァーグの時代の‘お約束’なのだろうか。)

それにしてもフランソワーズ・ドルレアックにハマってしまった彼女の25歳での不慮の事故死という悲劇が実妹カトリーヌ・ドヌーブに突きつけた積年の心の重荷はいかばかりか。想像に余りある。

2014.09.04

‘極北系’作品のメッカ?

渋谷に出てきて、イメージフォーラム『リヴァイアサン』(2012)を観る。「ドキュメンタリーの極北」と銘打たれているが、ほんとうにそう。という以前に、このところイメフォで観ているのは‘極北’系の作品ばっかりみたいな気がしてきました。

で、リヴァイアサン。“音”の映画だった。「リヴァイアサン」とは、人類(あるいは、轟音とともに海を荒らす古びた底引き網漁船)のことなのね。ハーバード大学所属の人類学者が巨大漁船に小型カメラを多数取り付けて撮影した、荒ぶる海と魚と鳥と人間に関するドキュメンタリー。

イメフォにはけっこう頻繁に来ている気がするのだけれど、今日は初めて、まっすぐ渋谷方向に帰らず青山劇場方向に寄り道して青山ブックセンター本店へ。買いたい本がたくさんありすぎて困った。帰りに渋谷TSUTAYAにも寄って、希少物件VHSを2本借りて帰った。ローレンス・オリヴィエ主演の『探偵スルース』(1972)とクラウベル・ローシャ傑作選『アントニオ・ダス・モルテス』(1969))

ここのところ旧作DVDで‘当たり’が続いていて嬉しい。山中貞雄『河内山宗俊』(1936)、W・アンダーソンの長編第一作『アンソニーのハッピー・モーテル』(1996)、トリュフォー『柔らかい肌』(1964)という具合。『柔らかい肌』は2回鑑賞。そして今日、ロマン・ポランスキー『袋小路』(1966)。柔らかい肌に続いて、フランソワーズ・ドルレアック祭り!なのです。それにしてもロマン・ポランスキー初期作品は本当に尖っている。袋小路---Cul-de-sac---からは、「ゴドーを待ちながら」と「第七の封印」を連想した。奇妙で可笑しい狂気と破滅。

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