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2014.09.05

R・ポランスキーの不条理劇とF・ドルレアックの存在感に心奪われる

ローレンス・オリヴィエ×マイケル・ケイン出演の『探偵スルース』(1972、監督はジョセフ・L・マンキウィッツ(渋谷TSUTAYAで借りたVHS物件)、見終わったあとしばし放心。ローレンス・オリヴィエがなぜ「名優」の代名詞なのか、初めて納得した感あり。そして、サー・ローレンス・オリヴィエの向こうを張って一歩も譲らない若きマイケル・ケインの演技力。作品自体の「完全なる二人芝居」「ほぼ密室劇」としての強度に圧倒された(舞台作品の移植ゆえの特性ではあるが)。

壮年の男、若い男、女の三角関係、二転三転する緊迫の密室劇、という型に着目するなら、ロマン・ポランスキー『水の中のナイフ』(1962)と、この『探偵スルース』を並べてみたい気もする。(『水の中のナイフ』はオープンエアが舞台でありながら‘密室劇’の趣)(あ、しかし、「スルース」は三角関係でありながら登場人物は男二人だけだ…)

また別の話。「スルース」導入部に出てくる生け垣迷路の庭園、あの、謎が謎を呼ぶ雰囲気、こんぐらがった愛憎関係の糸を象徴するかのような舞台装置が、S・キューブリック『シャイニング』(1980)に出てくるそれとよく似て見えた。こういう庭園迷路がイングランドにはいっぱいあるんだろうか。(……あ、いや、「シャイニング」の舞台はコロラド山中の実在のホテル、撮影はこれを正確に模してイギリス国内につくったオールセットでしたね……)

そうそう、昨日鑑賞したロマン・ポランスキー『袋小路』(1966)奇妙さ・面白さを書き留めておかないと。【ネタバレ注意】コメディエンヌ/不条理劇女優としてのフランソワーズ・ドルレアック。すっぽんぽんの裸になって走って地平線の向こうの海岸まで泳ぎに行く後ろ姿、はるかかなたの海辺から一直線に裸でもどってきて途中で脱ぎ捨てたローブを拾い適当に身にまとう一連の動き、これだけでも何か体の表情に可笑し味がある。不思議な女優。/→冒頭。まっすぐ道路に沿って電柱が並ぶだけの殺風景な田舎の景色、そこに故障して止まった悪人2人組のボロ車、ひとりは腹を撃たれて動けず、ひとりは腕を端切れでつっている。腕を吊った方が電話を求めて岬の‘城’に向かいそこから戻ってくるまでの間に、潮が満ちてきて道路は完全に水没、ボロ車は内部まで浸水してもうひとりの悪人の方は溺れかけている。そのシチュエーションだけでまず、可笑しい。そんなことあるかよ?、という感じ。/→ニワトリだらけの‘城’、ニワトリの卵だらけの冷蔵庫の中も、しかり。/→夫婦の城のすぐそばを低空で飛ぶ1日1回‘定期便’のジェット機。(悪人その1が‘悪の組織’からの迎えの飛行機だと勘違いして狂喜し、次いで失意に沈んだ。)/→真っ平らな景色の中のたった一本の道を毎日消し去る潮の満ち引き。奇妙に乾いた、‘大がかりな’孤立感。/ヒッチコック『北北西に進路を取れ』(1959)のあの、見渡す限りの原っぱに一本道、そこに轟音をたてて飛行機が飛んできて主人公が逃げまどうシーンへのオマージュも見て取れるね。/→豊かな長い髪をなびかせて子鹿のように飛び回る奔放な若い妻、スキンヘッドの中年男で臆病者の夫。このアンバランスな夫婦の醸し出す不協和音と不条理感!(最初にドルレアックが画面に登場したのは、浜の岩場で近所の少年とじゃれあっている様子を悪人その1が盗み見る、というカットだったので、そもそもこのドルレアックと禿頭のドナルド・プレザンスの二人が「夫婦」だというのに観客は「えっ?」と思う。*そう思わせるように構成されている)/→悪人が心待ちにする犯罪組織のボスはいっこうに姿を現わさず、代わりに夫婦には客が入れ替わり立ち替わり訪れる。悪人が待ち呆ける姿に、「ゴドーを待ちながら」が重なって見えた。/→あたかも戯れのように発砲される銃、庭に掘られる墓、このあたりが、たまたま続けて観た「袋小路」「探偵スルース」の二本に共通していた。偶然。/→その場をとりつくろうための即興芝居の妙。悪人その1は、突然やってきた客の前で、きゅうきょ‘使用人’を演じることになる。横柄に彼をあごで使う妻、調子っぱずれなフォローを繰り出す夫。/ドナルド・プレザンスの不条理喜劇芝居も、過不足なく、いい!

…と、断片的なメモばかりではアレなので、「袋小路」のサマリーを少々。→なにか悪事を働いて逃走してきたらしい悪人2人組の車が海辺の一本道で立ち往生する。ふたりとも怪我を負っている。動けない一人を車に残し、もう一人が、崖の上に見える古ぼけた‘城’に向かう。そこには中年男と若い妻の奇妙な新婚夫婦が暮らしていた。ボスに連絡を取ったあと電話線を切り、‘城’に立てこもって悪人仲間が助けに来るのを待とうとする悪人その1。車から運び込まれた悪人その2は、その晩、庭の食卓の上に寝かされたまま息絶える。悪人に助けは来ない。夫婦には何組も客が訪れる。不協和音が増していく。あらゆる隙間にほころびが生じ、やがて破綻が訪れる。

同じポランスキーの初期モノクロサスペンス、カトリーヌ・ドヌーブを配した『反撥』(1964)フランソワーズ・ドルレアックの『袋小路』(1966)は、どちらも密室と狂気と美女にまつわる話。前者は暗く、後者は奇妙に明るい。どちらも最後に派手に破綻する。破綻の派手さ・無意味さにポランスキーの真骨頂が垣間見える。(不条理で滑稽な「破綻」こそが、ヌーヴェル・ヴァーグの時代の‘お約束’なのだろうか。)

それにしてもフランソワーズ・ドルレアックにハマってしまった彼女の25歳での不慮の事故死という悲劇が実妹カトリーヌ・ドヌーブに突きつけた積年の心の重荷はいかばかりか。想像に余りある。

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