■キム・キドグ『嘆きのピエタ』(2012)。今月から試しに始めてみたTSUTAYA DISCASにてDVDを借りる。104分の作品の20分経過時点でもう限界。キム・ギドク作品は今までに『春夏秋冬、そして春』(2003)、『悪い男』(2001)の2作を観たことがあるのみ。『春夏…』は最後まで観たし映画として素晴らしいとも思ったが、『悪い男』は1時間ぐらい観た時点でギブアップしている。たぶん私は、キム・キドグが根本的に苦手。
■私にとってキム・キドグと似たケースなのが、アレハンドロ・ホドロフスキー。今夏の『ホドロフスキーのDUNE』『リアリティのダンス』公開に先駆けて今にわかに、「元祖カルトムービー作家」といった謳い文句のもとにホドロフスキーブームが来ているようなので、過去の作品『エル・トポ』『サンタ・サングレ』を続けて借りて観てみたが(現時点で『ホーリー・マウンテン』は未見)、どちらも20分で観るのを止めてしまった。魔術的に美しい映像であることについては100%同意する。しかし、生理的に受け付けない。気持ちが悪い。私の場合、寺山修司は大好きだが、ホドロフスキーはだめ。デヴィッド・リンチやデヴィッド・クローネンバーグは許容範囲だが(ものによってはかなり好きだが)、ホドロフスキーはだめ。エル・トポの冒頭に出てくる黒ずくめの騎士が鞍の前に乗せている全裸の金髪の幼児、あれなど、あからさまに「俺の息子」の比喩をそのまま映像化したようなもので、その直截さ、「幼稚さ」(?)が好きになれない。(もしかして観る人によってはそう見えない? 観る側の私にも問題がある??)(自分の嫌悪の理由を説明しきれていない/自分でも理解しきれていない、という気もするのだけれど。)
■でも、『ホドロフスキーのDUNE』と『リアリティのダンス』は、観に行くだろう。矛盾していますが。劇場にじっと座っていられるだろうか。心配。そういえばDUNEは土曜日から?始まっている。シネマカリテはつい最近『グランド・ブダペスト・ホテル』で行ったから、アップリンクの方に観に行こうかな。
■キム・キドグ『嘆きのピエタ』に戻る。『春夏…』の場合、池にうかぶ祠、という非現実的な舞台装置が、「いつでもない時代のどこでもない場所」を表しているように見え、展開する物語がいくら荒唐無稽で「マンガ風」であっても「寓話」として脳内変換することができた。でも『嘆きのピエタ』は、スマホを持った若い男が主人公で、ソウルのどこかにある貧民窟(清渓川周辺の中小機械工場地帯)が舞台であるという時点で、男の行動の「寓意性」などはどこかへ吹っ飛んでいき、‘常識の壁’が視界の周囲に立ちはだかって「ただの凶悪犯だろ」「法はないのか法は」といった方向に意識が向く。いちいち‘常識人’として無性に腹を立てている自分を発見することになる。これでもかこれでもかと続く残虐シーンにも耐えられない。(本当はキドグもホドロフスキーも、その本質的な残虐さへの志向が私には受け入れられないのかも。北野武『アウトレイジ』や園子温だったら、残虐シーンにだけ目をつぶって、後は笑って観ていられるんだけどなあ。)(母と息子、韓国映画といえば、脈絡不明かもしれませんが、ポン・ジュノ『母なる証明』なら文句なしの名作なんだけなああ。)(そういえば、パク・チャヌクも『オールド・ボーイ』『親切なクムジャさん』はかろうじて観ていられるが、他はだめだなあああ。)
■「残虐さ」についてのスタディを試みる、ってのもありかな。
■…と、さんざん書いておいて、その後、『嘆きのピエタ』後半を最後まで観た。罪と罰の物語として、円環が閉じた。悪くなかった。
■3週間?だかの早撮りだと監督がインタビューに答えて言っていた。これに関しては素直に、すごい!!と思う。
■映像の完成度が高い。
■資本主義、拝金主義、母と息子、等、中心に据えられた道具立て(テーマ?)の捉え方が皮相的、上滑り、あまりに素朴、と思えてしまう点は変わらないのだが。それでも、監督自身がDVDの中で日本人インタビュアーに語っていた言葉を引けば、「自殺でも他殺でもなく、神への貢ぎ物のような死を描こうとした」というラストシーン、残虐性への志向が「啓示」のレベルに近づいていたことに、感嘆を覚えた。