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2014年6月

2014.06.30

偶然見たTVで、蟹江敬三とジョン・カサヴェテスに出合えた

今日は偶然、午前中にひとつ、午後にひとつ、テレビドラマを注視する状況に陥った。昨日のゲリラ豪雨と落雷の影響か、CATV経由のBS放送が受信できなくなり、その対策のためにサービス元に問い合わせたりそれに伴って主にBSのチャンネルを闇雲に切り替えて録画できるかどうか試したりしていたことが引き金に。

その1)午前中のBS−TBS:初めて目にしたドラマ(2時間ドラマ!)、渡瀬恒彦主演の『世直し公務員ザ・公証人』。いきなり蟹江敬三が前面にどーんと出てきたので目が離せなくなった。今日放映されていたのは10年以上前のシリーズ2作目。蟹江敬三の存在感と奥行きは、どこから出てきているんだろう。

その2)午後のNHK-BSプレミアム:試し録画にと思って偶然そのタイミングで始まろうとしていた『刑事コロンボ』(!!)にチャンネルを合わせたら、どーん!!!とジョン・カサヴェテスの顔がアップに。著名指揮者役(つまり犯人役)でカサヴェテスがゲスト出演している回だった。カサヴェテス×ピーター・フォークの刑事コロンボといったら(そんなものがあることを今日初めて知ったのですが)もう観るしかないでしょう。文句なしに面白かった。カサヴェテスが『こわれゆく女』ジーナ・ローランズの夫役にピーター・フォークを起用したきっかけは、このコロンボでの共演だったりするのだろうか(制作年の前後関係調べてみよう)。

2014.06.28

ホドロフスキーのDUNEに元気とインスピレーションを貰う

『ホドロフスキーのDUNE』(2013)アップリンク(渋谷)で鑑賞。アップリンクの会員登録を済ませ、「アレハンドロ・ホドロフスキー - 芸術に許可が必要だと?- 」展パルコ・ギャラリーXも見てきた。予想外に(?)、収穫が山ほど。誇大妄想のホドロフスキー、<イエス・キリストの刑死と復活>を執拗にグロテスクに変奏してみせているように見える。思いがけない影響関係。DUNEのメビウス(砂漠、怪物)→ナウシカの宮崎駿(砂漠、王蟲)!(を連想した)。あと、ホドロフスキー版DUNEの結末→97年エヴァにおける<人類補完計画>も!! ホドロフスキーのSFメカのディテールには不気味な‘生命’の気配が宿っている。ギーガーの起用がその要なのだけれど。そこに‘ガウディ’的なものを感じる。ダリとオーソン・ウェルズの口説き方が秀逸。砂漠で時計を見つけたことがあるか?というダリからの問いかけへのホドロフスキーの応え方!!!(→ホドロフスキー「見つけたことはないが、たくさん失くしてきた」)エル・トポの主人公はホドロフスキー本人の自演で、<私の息子>は文字通り息子だったことを初めて知る。エル・トポの見方が少し変わるかな(変わらないかも…)。ホドロフスキーは率直で元気で可愛いおじさんだった。とても80代には見えない

2014.06.27

待望の山中貞雄『百萬両の壺』、さらっと鑑賞メモのみ

■TSUTAYA DISCASの配達分より山中貞雄『丹下左膳餘話 百萬両の壺』DVD観る。人情味溢れる軽快な剣劇。観賞後のWiki検索によって、大河内伝次郎大河内山荘の関係を初めて知る。基調をなすコミカルな丹下左膳と彼をめぐる人間模様がほほえましい。丹下左膳が用心棒 兼 旦那を務める的当て屋の女主人と看板娘の顔立ちが現代的なのが印象的だった。戦前とは思えない。丹下と丁々発止の‘相棒’ぶりを見せる女主人の喜代三は岩下志麻か藤あや子か、看板娘・深見藤子は深田恭子か松田聖子かといった印象。こういう感想を戦前のモノクロ映画特に時代劇を観て抱いた記憶がない。とはいえまずは、跳ねるように踊るように不定形かつ高速に立ち回る大河内伝次郎の殺陣に目を見張った。あと、街をさまようシーン。『人情紙風船』にも似た場面があったな、と思う。

2014.06.25

70年代が美しく見えてしまう / 刷り込みと錯覚と

月曜に吉祥寺TSUTAYAで借りてきていたVHS2本、A・ホドロフスキー『ホーリー・マウンテン』(1973)神代辰巳『青春の蹉跌』(1974)を観た。VHSはもちろん画質が最悪なのだが、VHSでしか借りられないタイトルがあるので最近頻繁に借りている。VHSなら、ものによってはデジタルTVのハードディスクにダビングできる!ということを発見したことも後押しとなった。(ただし今回は2本ともダビング対象外。神代辰巳の方がダビング禁止プロテクト物件、ホドロフスキーの方は高2息子が間違って観るといけないので始めからダビング自粛予定だった)

ホドロフスキーはやっぱり相性が悪くて終始しかめっ面で観ることになった上、結局は冒頭30分で鑑賞を中断。だが今回は無理してでも最後まで観ようという気になっているので、続きは明日以降。一方、神代辰巳の方は最初から最後までなめるように観た。ショーケンと桃井かおり。感慨深かった。そのつもりは特になかったんだけれど、ここのところ70年代づいている。ファスビンダーも小川紳介もコアは70年代にあるし、今日の2作はなんと73年・74年とほぼ同時期ではないか。期せずして沸きあがる自らの10代への郷愁!

で、脈絡は特にないが、はしだのりひこ「花嫁」(iTunes内の音楽ファイルをスクランブルで流していたらこれが流れた)が何年の曲だったっけ、とWiki情報を出したら1971年だった。解説文に「暗いイメージのある駆け落ちを明るく前向きに表現した楽曲」とあって、意表を突かれる。これが駆け落ちの歌だというふうに思って聴いたり歌ったりしていなかった。当時小学生だったからだろうか。私の中で「花嫁」は、吉田拓郎「結婚しようよ」「旅の宿」とほぼ地続きになって記憶されている。これら一連の70年代フォークソングを真に受けて、結婚ってそういうふうに‘気楽に’‘身軽に’‘旅立ったりするものだと刷り込まれていた! これってゴッホのひまわりが「枯れている」ことに最近気付いたことにも通じるなにかなのでは。なにか、って、何か。ちゃんと言語化できるか?

2014.06.24

ファスビンダーの「奇妙さ」

オーディトリウム渋谷ファスビンダー映画祭を観に行った。日時の都合でたまたま観られたのが『自由の代償』(1974-5)、ファスビンダー自身の主演。いやあーいつだったかのユーロでのベルリン・アレクサンダー広場特集上映の時も思いましたが、ファスビンダーの映画は「奇妙」今日観たのについても、このくらいもう真っ向からゲイ・コミュニティって映画も私は他にあまり観た経験がなかった。(この感じ、どう言ったらいいのか。たとえば、女装映画なのにゲイ映画ではなかった(?!)グザヴィエ・ドラン『わたしはロランス』(2012)の奇妙さを引き合いに出して、観客としての私の感じるそれぞれの「奇妙さ」の質を論じてみるとか)

2014.06.23

レンタルに出ているのはVHSだけ、という映画とか

先週金曜の朝日・日経映画欄は、どちらもルーマニア映画『私の、息子』(2013)。これとポン・ジュノ『母なる証明』(2009)キム・キドグ『嘆きのピエタ』(2012)を抱き合わせれば、「母と息子の修羅場」みたいなお題がひとつひねり出せるか。俎上に日本映画、ヨーロッパ映画、アメリカ映画からも何か乗せたい、のだが残念なことに思いつかない。

吉TSUTAYA吉祥寺店でVHS2本、『青春の蹉跌』『ホーリー・マウンテン』(!!まだ懲りずに!!)を借りてきた。ほんとうはもう1本、ホウ・シャオシェン『冬冬の夏休み』も借りるはずだったのに、カウンターで製品チェックしたらテープが切れており(…!!…)、借りられなくなりました。映像ソフトとはまさに即物的に「モノ」なのだという厳しい現実に直面。

2014.06.22

小川紳介『ニッポン国 古屋敷村』プロット覚え書き:働いて働いてそれでも貧しかった日本の田舎の原風景

小川紳介『ニッポン国 古屋敷村』(1982)覚え書き。ナレーターではなく、被写体の人物に向かって語りかけ、対話する「インタビュイー」としての小川本人の語り口に特徴だいぶ昔のNHKドキュメンタリー『電子立国日本』シリーズ(1991〜)でアナウンサー三宅民夫と対話を繰り広げたディレクター相田洋のしゃべりを連想した。もちろん、私が出合った順序が相田→小川だったというだけで、事実は相田の方がずっと後なのだが。声としゃべり方が似ていると思う。軽快、陽性、お茶目、自然。

昨日のユーロスペースでの上映は前後編の2部構成、間に休憩をはさむ220分の長大なものだった。前半、イネの不作状況を科学的に追跡する‘科学ドキュメンタリー’調が延々と続く時間帯に、不覚にも居眠りしてしまった。このパートもたいへん面白かったのですが。‘青立ち’の稲穂を陽に透かして受精した米粒のパーセンテージを割り出す動作に、今まで知らなかった「コメを生産する」という現実の肌触り、核心のようなものを見ました。さて。ふと目を覚ますと、スクリーン上では年配の男性が、道路が通り便利になったことで、村にはなにもなくなってしまった、期待していたことが全く裏目に出た、昔はみんな炭焼きを生業としていたのに誰も炭焼きをしなくなった、だからといってそれに変わる技術、金になるようなものは誰も何も持っていなかった、みたいなことを淡々と話しておられました。一気に目が覚める。

休憩後の後半 → 村でたった一人残った炭焼きを生業とする男性。炭焼きの詳細のドキュメントが力強くて面白い / その母。戦死公報の古い封筒から文書を出し、広げてみせる。炭焼きの男性の2人の兄は戦死している。母は当時口にこそ出さなかったが二人の息子がいつか帰ってくるものと望みを捨てきれず戦後10年間にわたり秘かに待っていた / 分家。養蚕事始め。志願兵として満州に渡った男性が勲章を並べて見せる。20歳から36歳まで戦地にいたが戻ってからは一度も村を出ずに妻と養蚕を営んでいる。その妻が語る。分家して自分たちの家を起こす気概で夫婦で苦労を厭わず働いてきた。だが、買い足し買い足しした農地は戦後GHQに取り上げられ、何も手元に残らなかった / 最も古い養蚕農家の老女。養蚕業の最盛期の栄華、父が花火を揚げ酒宴を繰り広げた日々を回想する / ラッパ兵の回想。トランペットが好きだったこと。軍隊でずっとラッパを吹き続けてきたこと。九死に一生を得て帰還したときの喜び。しかし戦死した同志のあまりの多さに、戦後しばらくの間周囲の目を恐れて外に出られなかった。今も軍服を着てトランペットを吹く。山里を見晴るかす野でひとり / 村のもうひとりの戦死者の家を訪ねる。養蚕農家。戦死した男性の叔母。彼が4歳のときに嫁に来たと話す。姑40歳の時の子だった彼は末っ子でかわいがられて育ち、小学校に上がるまで乳離れしなかった。彼の戦死の際に付与された巨額の国債を筒から出して見せる。切り分けられていないシート状のもので、そのことにも驚く。そもそもすぐには現金化できない証文だったが、戦後は文字通りただの紙切れと化し、持ち込んだ銀行では「額にでも入れて飾っておけば」と嘲笑われた / 戦争への憎悪を語る帰還兵。なんのために戦争をするかもわからず、ただ殴られていただけだったと回想する。

今日検索してみると、『古屋敷村』の映像はYouTubeに前編・後編の二部に分かれてUPされていた。遅刻してみられなかった冒頭10分と、居眠りしていた前編後半の20分ほど(!)の内容を確認する。

2014.06.21

上映イベントが折り重なって目が回る / 若者文化ラブなおじいさん、愉快なジャック・タチ

今日から三週間、ユーロスペースで小川プロダクション全作品特集上映。観に行かなくては。とりあえず、今日14:00からの『ニッポン国古屋敷村』(1982)を。この映画、遠い昔の80年代に、渋谷の街でよく見かけた上映告知ポスターの素朴なイラスト画、ごちゃーっと描き込まれた描線の感じなどをなぜか鮮明に覚えている。

本日開始の上映イベントが重なっている。上記ユーロでの小川プロダクション特集上映のほか、オーディトリウムではファスビンダー映画祭(再)、これまた再映組でイメフォではジャック・タチ映画祭。ジャック・タチはおおかた見たからファスビンダーの方を逃さないようにしようか。それにしても目が回る。結局は、観損なって次々こぼれていく映画たちの死屍累々。

ジャック・タチって、60年代末〜70年代初頭の若者文化が心底好きだったんだろうなとふと思う。当時すでにおじいさん(1907年生まれだから60代)だったのに。『プレイタイム』(1967)で、準主役のジャーナリストの女の子が来ていた服(とっかえひっかえファッションショー!)とか『パラード』(1974)で観客席を埋める観客たちのヒッピー風ファッション百花繚乱、ああいうヴィジュアルに、タチの「若者文化ラブ」が溢れ出ている。タチは「マシーン」も「モダーン」も大大大好き機械文明をキー概念としたタチvsチャップリン比較論って、きっと誰かやっているよね。探してみよかな。

そうだ。60年代末〜70年代初頭に「若者文化ラブ」だったおじいさん、というので、タチから植草甚一を連想したのだった。

小川紳介『ニッポン国古屋敷村』(1982)、観てきた。小川プロダクションの活動とこの作品が、後の山形国際ドキュメンタリー映画祭への道筋を拓いたことが、実感としてとてもよく了解できた。

2014.06.20

「途中で観るのを止めてしまった映画」のこと

TSUTAYA DISCASで借りた園子温『地獄でなぜ悪い』(2013)を、ちょうど半分、1時間数分まで観たところで観るのをやめて、さっさと返送してしまった。DISCASお試し期間中で慣れておらずやや早まってしまったというのもあるが、これってヤクザもの(仁義なきシリーズ!)と映画少年もの(ってなに??)(というか映画関係者の自己言及もの、‘映画についての映画’)ひどく達者に作られたパロディでそれ以上でも以下でもないやんけ、みたいに早々と見切ってしまったわけで、でもさすがに返送用封筒を自宅からいちばん近いポストに放り込んだ後、少し(かなり?)後悔した。長谷川博己興味あるし彼が率いるかなりズレた映画狂集団と國村隼×堤真一の映画的クリシェ詰め込んだ楽しいヤクザ二勢力カナメに位置する今ズベ公・元ロリコンアイドルな二階堂ふみこの四者が最終的にどう絡むのか、確かめない段階でやめてしまったのはやはり早計だったかな……、と。映画の玉手箱みたい、という点ではかの『グランド・ブダペスト・ホテル』と相通じる!?ところもあったかもしれない映画、なんといってもあの園子温作品だったというのに。

ちなみに、「途中で観るのを止めてしまった映画」の一群について書いてみたい、という欲望を以前から抱いているのです。なぜ、私はそれらを最後まで観ることができなかったのか。それが「駄作」だから、っていうんじゃそれだけのことなんだけれど、そうじゃなくて一般に「秀作」と言われている作品の中に途中で観るのを止めてしまった映画がけっこうあるので、それに限って論じてみる、など。

2014.06.19

昨日に引き続き:スコリモフスキの疾走する「若さ」の映画について

イエジー・スコリモフスキ『出発』(1967): スピード感当時の前衛ジャズ(byクシュトフ・T・コメダ)の音楽の突出の仕方と映像とのシンクロの仕方特にロングで主人公ジャン=ピエール・レオの‘奇行’をブリュッセルの街角の風景の一部のように切り取るモノクロのシャープな映像感覚が素晴らしくて、最初から最後までどきどきしていた。同時に、若さゆえに前後の見境なく突っ走るジャン=ピエール・レオの一挙一動が、意図されてかされなくてか非常にコミカルで、観客の私は終止声を出して笑っていた。ぴっかぴかのポルシェ、ポルシェに取り憑かれた若い男(=ジャン=ピエール・レオ)、実は一文無しの美容師見習いなのに明後日開催されるレースにどうしてもポルシェで出たい、さてどうするか。面白かった!(正直なところを言えば、ラストだけは納得できなくて、そこが残念だったのですが)。

60年代後半〜70年代初頭、「若者」の存在がにわかに脚光を浴びたこの特権的な時代の「クルマ狂」の若者たちを主題にしたヌーヴェルヴァーグ/アメリカンニューシネマの金字塔みたいな視点で、スコリモフスキ『出発』(1967)とモンテ・ヘルマン『断絶』(1971)の2作を並べてみたい。周辺には「クルマ」関連でジャック・タチ『トラフィック』(1971)を配置してみるとか。大きくは映画としての「前衛」のくくりのなかで位置づけたいので、通常の「カーレースもの」とか「カーチェイスもの」は排除(私の守備範囲ではないし)。

この時代の「クルマ狂」とは何だったのか。

それにしても、スコリモフスキ29歳の『出発』(1967)と72歳の『エッセンシャル・キリング』(2010)が、息吞むチェイスを、映像と音だけで感知させていく手法、独特のスピード感、映像のシンプルな豊かさにおいてほとんど同形だということに気付いてはっとする。性への不可解なまでの臆病さ(?)までもが、29歳『出発』と70歳『アンナと…』で同形?なのも、なんというか。

ヌーヴェルヴァーグ再訪の手掛かりとして、ジャン=ピエール・レオのフィルモグラフィーをあらためて辿ってみようか……トリュフォーのアントワーヌ・ドワネル5部作を始めとしてゴダール、コクトー(!)、本作のスコリモフスキ、パゾリーニ、ベルトリッチ、90年代以降のアキ・カウリスマキ、と、数え上げてみるとなんとコクのあるラインナップなんでしょう!

2014.06.18

イエジー・スコリモフスキ『出発』のジャン=ピエール・レオが凄い

昨日、今日の二日をかけてレンタルDVD(TSUTAYA DISCAS)で観た『出発』byイエジー・スコリモフスキ(1967)について。ジャン=ピエール・レオの躍動感、体のキレ、ハチャメチャさ、音楽、画面全体から溢れ出る‘若さ’がとにかく凄い! いくつかここを起点に考えたことがあったのだけれど、もう夜中の2時を回ってしまったので、続きは明日。

そうそう、今日は水曜だったから『ホドロフスキーのDUNE』を渋谷アップリンクか新宿シネマカリテで1000円で観ようと思っていたんだけれど、なんやかやで結局果たせず。そうだ、バウスシアター閉館の穴埋めに(?)アップリンクの会員に新規登録しよう。そうすれば、水曜以外でもDUNE1000円で観られるし。

2014.06.17

人名検索三昧、中原昌也など

いつもの悪癖が高じ、また無意味な人名検索三昧に時間を浪費してしまった。どういう脈絡だったのか思い出せないのだが、中原昌也、坪内祐三、その他何人か。中原昌也の小説をひとつも(立ち読みさえ)したことがないということに気がつく。少し前のバウスシアター爆音イベントで中原昌也がブニュエルシュルレアリズム時代の無声映画の古典『黄金時代』を自らのノイズミュージック実演でシンクロライブしてみせた時は観に(聴きに)行ったけれど、私に音楽の素養がないためか、まったくぴんとこなかった。とはいえ、中原昌也を評価する人たち=高橋源一郎、福田和也、金井美恵子、らの名と、受賞した賞名=三島由紀夫賞、野間文芸新人賞、ドゥマゴ文学賞、の連なりにくらっとし、少なくとも文庫化されているものは読もうと決心する。以下、覚え書き。『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』(1998)/『子猫が読む乱暴者日記』(2000)/『あらゆる場所に花束が……』(2001)/『待望の短編集は忘却の彼方に』(2004)/『名もなき孤児たちの墓』(2006)。坪内祐三は前にも検索したことがあった。多作だなあ。『靖国』(1999)は、少なくとも読もう。

2014.06.16

キム・キドグとアレハンドロ・ホドロフスキーを生理的に受け付けない件

キム・キドグ『嘆きのピエタ』(2012)。今月から試しに始めてみたTSUTAYA DISCASにてDVDを借りる。104分の作品の20分経過時点でもう限界。キム・ギドク作品は今までに『春夏秋冬、そして春』(2003)『悪い男』(2001)の2作を観たことがあるのみ。『春夏…』は最後まで観たし映画として素晴らしいとも思ったが、『悪い男』は1時間ぐらい観た時点でギブアップしている。たぶん私は、キム・キドグが根本的に苦手。

私にとってキム・キドグと似たケースなのが、アレハンドロ・ホドロフスキー。今夏の『ホドロフスキーのDUNE』『リアリティのダンス』公開に先駆けて今にわかに、「元祖カルトムービー作家」といった謳い文句のもとにホドロフスキーブームが来ているようなので、過去の作品『エル・トポ』『サンタ・サングレ』を続けて借りて観てみたが(現時点で『ホーリー・マウンテン』は未見)、どちらも20分で観るのを止めてしまった。魔術的に美しい映像であることについては100%同意する。しかし、生理的に受け付けない。気持ちが悪い。私の場合、寺山修司は大好きだが、ホドロフスキーはだめ。デヴィッド・リンチデヴィッド・クローネンバーグは許容範囲だが(ものによってはかなり好きだが)、ホドロフスキーはだめ。エル・トポの冒頭に出てくる黒ずくめの騎士が鞍の前に乗せている全裸の金髪の幼児、あれなど、あからさまに「俺の息子」の比喩をそのまま映像化したようなもので、その直截さ、「幼稚さ」(?)が好きになれない。(もしかして観る人によってはそう見えない? 観る側の私にも問題がある??)(自分の嫌悪の理由を説明しきれていない/自分でも理解しきれていない、という気もするのだけれど。)

でも、『ホドロフスキーのDUNE』と『リアリティのダンス』は、観に行くだろう。矛盾していますが。劇場にじっと座っていられるだろうか。心配。そういえばDUNEは土曜日から?始まっている。シネマカリテはつい最近『グランド・ブダペスト・ホテル』で行ったから、アップリンクの方に観に行こうかな。

キム・キドグ『嘆きのピエタ』に戻る。『春夏…』の場合、池にうかぶ祠、という非現実的な舞台装置が、「いつでもない時代のどこでもない場所」を表しているように見え、展開する物語がいくら荒唐無稽で「マンガ風」であっても「寓話」として脳内変換することができたでも『嘆きのピエタ』は、スマホを持った若い男が主人公で、ソウルのどこかにある貧民窟(清渓川周辺の中小機械工場地帯)が舞台であるという時点で、男の行動の「寓意性」などはどこかへ吹っ飛んでいき、‘常識の壁’が視界の周囲に立ちはだかって「ただの凶悪犯だろ」「法はないのか法は」といった方向に意識が向く。いちいち‘常識人’として無性に腹を立てている自分を発見することになる。これでもかこれでもかと続く残虐シーンにも耐えられない。(本当はキドグもホドロフスキーも、その本質的な残虐さへの志向が私には受け入れられないのかも。北野武『アウトレイジ』園子温だったら、残虐シーンにだけ目をつぶって、後は笑って観ていられるんだけどなあ。)(母と息子、韓国映画といえば、脈絡不明かもしれませんが、ポン・ジュノ『母なる証明』なら文句なしの名作なんだけなああ。)(そういえば、パク・チャヌク『オールド・ボーイ』『親切なクムジャさん』はかろうじて観ていられるが、他はだめだなあああ。)

「残虐さ」についてのスタディを試みる、ってのもありかな。

…と、さんざん書いておいて、その後、『嘆きのピエタ』後半を最後まで観た。罪と罰の物語として、円環が閉じた。悪くなかった。

3週間?だかの早撮りだと監督がインタビューに答えて言っていた。これに関しては素直に、すごい!!と思う。

映像の完成度が高い。

資本主義、拝金主義、母と息子、等、中心に据えられた道具立て(テーマ?)の捉え方が皮相的、上滑り、あまりに素朴、と思えてしまう点は変わらないのだが。それでも、監督自身がDVDの中で日本人インタビュアーに語っていた言葉を引けば、「自殺でも他殺でもなく、神への貢ぎ物のような死を描こうとした」というラストシーン、残虐性への志向が「啓示」のレベルに近づいていたことに、感嘆を覚えた。

2014.06.15

関連ないけど、ピーター・フォークと渥美清

おとといDVDで観た『プリンセス・ブライド・ストーリー』(1987) byロブ・ライナー。当時日本で話題になったという記憶はないのだが、IMDbではコンスタントにベスト250入りしているため、数年前から気になっていた。今回ようやく苦労して(?)レンタルDVDを探し出し(新宿TSUTAYA)、鑑賞の運びに。お伽噺仕立てな点が、同日、劇場で鑑賞した『グランド・ブダペスト・ホテル』と一脈通じるところも。こういう偶然ってよくある。というより、同時期に鑑賞した作品相互の類似点を、無意識のうちに探し出そうとする習癖が、私にはあるということなのかも。

病気で寝込んでいる孫息子をおじいちゃんがお見舞いに訪ねてきて、読んで聞かせるおとぎ話が「プリンセス・ブライド・ストーリー」だという入れ子構造の映画。これ、ディズニー系お伽噺を想起させるタイトルに反して、一般に「アクション映画」と分類されていることに違和感があったのだが、実際観てみると「冴えたアクションシーン満載のお伽噺」、といったところか。それって今のディズニーアニメの定型でもあるよね(「プ・ブ・ス(←省略形)」はディズニー映画でもアニメでもないが)。なんというか、「プ・ブ・ス」を思い返そうとするとなぜかアニメ映画に脳内変換されてしまう。紛うことなく実写映画なのに!

おじいちゃん役のピーター・フォークの存在感が秀逸。どうしても刑事コロンボに見えてしまって(コロンボには孫息子がいたのね!みたいにw)、微笑ましい。同じピーター・フォークがジョン・カサヴェテス『こわれゆく女』(1974)でこわれゆくジーナ・ローランズをひたむきに支える労働者階級の中年夫を演じていた時には、刑事コロンボに見えなかったんだけれど。ピーター・フォーク≒刑事コロンボで連想したのが渥美清≒寅さん。寅さんでない渥美清を観るために、寅さんになる前の渥美清映画2点『拝啓天皇陛下様』『白昼堂々』(どちらも監督は野村芳太郎)を近々借りる予定。

2014.06.13

ジョナス・メカスを着火点として / 比類なき『グランド・ブダペスト・ホテル』!

少し前にアマゾンで購入し封を切らないまま積んでいたDVDジョナス・メカス『ウォールデン』をとうとう観た。面白い! まだ冒頭30分まで観ただけなのだけれど。ジョナス・メカスの「日記映画」をきっかけに、私も「日記」を書き始めることにする。これってちょっと違うかな?という感じもするが。

ジョナス・メカスの映像。早回し。早回しのせわしないモンタージュ。手持ちカメラのブレ。映像の音は消され、別の音(音楽)が乗せられる。ぜんぜんナチュラルじゃない。なのに絶妙。絶妙に「感情」や「生理」を表現しえている。なぜだろう。子供。動物。花。植物。ふと、荒木経惟を連想した。子供、動物、花々、木々、それらへの愛、愛着がにじみ出てくるかのような映像。なのに、基調に流れているのは不安定な感覚、あるいは、不安。それは、故郷喪失者としてのジョナスの哀しみと言っていいのだろうか。

グランド・ブダペスト・ホテル』byウェス・アンダーソンを観に行く。新宿のシネマカリテ初見参。14時頃シネマカリテへ。混んでいる!水曜日でもない平日、20分も前に到着したのに、もう前2列しか席が空いていなかった。

『グランド・ブダペスト・ホテル』、素晴らしかった。思わず帰りの新宿駅のホームで、本当にひさかたぶりにツイッターで感想をつぶやいてしまう。ツイッターにはなんて書いたんだっけ。スマホで出してみると、「映画的記憶のぎっしり詰まった玉手箱みたいな、本当に素敵な映画だった。泣きたいような、幸せな気持ち。あと2回は劇場で観るかな。」
『グランド・ブダペスト・ホテル』(長いからグブホとか省略しよかな)、古典的サスペンス映画のチェイスシーンとか脱獄映画のあれこれとかいろんなジャンル映画のエッセンス、いちばんおいしいところを縦横無尽にコラージュしているなど、賞賛したいディテールがそれこそ私の映画的知識をはるかに超えて溢れ出しているのだけれど、何より好きだったのは、一番深い部分を非常に短い台詞一言で要約し、それがありきたりでも食い足りなくもなく、簡潔さゆえにかえって深い感情を呼び起こしていること。たとえば、語り手「ゼロ」の難民としての来歴、ムッシュ・グスタフとアガサのその後の短い生涯。ありきたりの映画ならその描写だけで2時間を費やせるような「悲劇」を、数秒間の台詞でさらっと語り、それを「喜劇」の基盤のなかに埋め込んでしまうという芸当、機微、上品さ。ちょっと井上ひさしを連想。

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